安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

遅いか速いかではなくて、聞くか聞かないかです(MMAさんのコメント)

MMAさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

初めて質問させて頂きます。阿弥陀仏の救いに私達の努力は一切間に合わないといつも教えて戴いていますが、それならば信心獲得するのに人によって遅速が出るのはなぜでしょうか。
遅速が出るということは、個人個人の求道の差ということなのではないでしょうか。そうであれば、獲信に自力や努力が関与していることにはならないのでしょうか?(MMAさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100209/1265716553#c1265783584

音色さんがコメントされているように、以前書いたエントリーもありますが、今回は、飛雲さんがコメントで紹介された、安心決定鈔から回答します。

人によって遅速がでるという考えは、以前エントリーでも書きましたが、阿弥陀仏一仏で、多くの人を順番に助けていかれるという考えからくるものです。
一人一人に、一人一人阿弥陀仏が願を建てておられるのですから、そこに早い遅いという比較はできません。
比較をするということは、Aさんと、Bさんがそれぞれ、同じ時期に仏法を聞き始められて、Aさんの方がBさんより先に救われたといっているCさんのいうことです。第三者として、観察している時は遅速をいうことができますが、当事者となったら、目の前の阿弥陀仏と私のことですから、時間がどれくらいあの人よりかかったと言うことはいえません。
また、現に阿弥陀仏は私を助けようと働いておられるので、「遅い」とか「早い」と私の方で評価することはできません。

仏体よりはすでに成じたまひたりける往生を、つたなく今日までしらずしてむなしく流転しけるなり。かるがゆゑに『般舟讃』には、「おほきにすべからく慚愧すべし。釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり」といへり。「慚愧」の二字をば、天にはぢ人にはづとも釈し、自にはぢ他にはづとも釈せり。なにごとをおほきにはづべしといふぞといふに、弥陀は兆載永劫のあひだ無善の凡夫にかはりて願行をはげまし、釈尊は五百塵点劫のむかしより八千遍まで世に出でて、かかる不思議の誓願をわれらにしらせんとしたまふを、いままできかざることをはづべし。(安心決定鈔

仏様の立場からはすでに成就している私の往生を、おろかにも今日まで知らずに空しく流転してきた。だから『般舟讃』には、「大いに慚愧すべきであり、釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり」といわれている。「慚愧」という言葉は、天に恥じ、人に恥じるとも、自らに恥じ他に恥じるとも言われている。何を大いに恥ずべきといわれるかといえば、阿弥陀仏は兆載永劫の間、私に変わって願行を行われ、釈尊は非常に長い過去から、衆生済度のために八千回世に出て、このような不思議の阿弥陀仏の誓願を私に知らせようとされてきたことを、今まで聞かなかったことを恥ずべきである。といわれています。

大変申し訳のないことでしたと、阿弥陀仏とお釈迦様のご苦労に慚愧の心を起こしなさいと言われているのは、救いが成就しているのに、それを聞かなかったことです。
当事者の問題となれば、遅速があるというよりは、救われるか救われないかということになります。
求道の違いということではなく、本願を聞かなかったと言うことです。今まで○○という行いをしたから本願を聞くのではありませんので、自力が関係することにはなりません。