安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

本願は建てられる時から私を助けるためのものです(頂いた質問)

「自分は救われないのではないか」という不安がどうしても出てきて、気にしないように見ないように「必ず助ける」本願が成就しているのだから、と心に言い聞かせているのですが、時々不安でいっぱいになってしまいます。不安に目を向けないようにして本願の言葉を言い聞かせるしかないでしょうか?(頂いた質問)

回答します。
阿弥陀仏の本願は、私を救うための本願でありますから、阿弥陀仏の本願に私が救われると言うことはすでに組み込まれているということです。
阿弥陀仏を医者に喩え、私を病人、名号を薬に喩える話がありますが、「病気を治す薬がある」という言い方をする際にはいいのですが、譬えだけにあわないところがあります。
薬は、大勢いる病人(または病気)の為に作られますが、阿弥陀仏の本願は私一人のために建てられたものです。
まず、全ての人を救うという本願を建てられてから、私にそれを適応されたのではありません。法蔵菩薩が誓願を建てられるその時から、すでに私を助けるために願いを起こされたのです。ですから「私が救われないのではないか」というのは、本願が先にあり、自分はそこに合わせなければ救われないということになってしまいます。

先手の本願というのは、私を救うぞということをすでに誓われてる本願だということです。阿弥陀仏という仏がましますと言うことは、そのお姿が私を助ける仏がましますということです。

十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる(浄土和讃82

私を摂取して捨てられない仏だから、阿弥陀仏という仏がおられるのです。
往生に関しては、私が心配することではありません。
私が何かをしないと助けられない本願ではなく、最初から私を助けるためだけに建てられた本願ですから、私の方から何かをしなさいと要求はされません。

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。(歎異抄後序

阿弥陀仏があり、本願を建てられて、名号ができた後に、それを私が信じて救われるのではなく、私がいるから五劫思惟された、本願を建てられた、名号になって下されたと言うことです。
救われないのではないかという心配はいりませんから、ただ今救われるのです。