安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

善ができると思う心と、善を往生の足しにしようとする心(ひろしさんのコメント)

ひろしさんより質問に重ねてコメント頂き有り難うございました。
返答が遅くなりました。

確かにライフセイバーと阿弥陀仏は違うので、譬えは不適切だったと思います。
善が出来るとバタバタしている姿を譬えようと思いました。
善が出来るとバタバタしているというのは、自力で助かると思っている事を表したつもりです。(ひろしさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100115/1263508040#c1263696746

ひろしさんのコメントを拝見すると、「善が出来るとばたばたしている」ということを「自力で助かると思っている」ということで言われています。

「自らの力でする善」と、「自らの力で行った善を阿弥陀仏に差し向けて往生しようとする心」と二つありますが、前者の「自らの力でする善」を「自力」と言われているように思いました。

阿弥陀仏の願力は無窮ですから、どんな暴れても必ず救うお働きがあります。

この内容ならば、自力のままで助かるという事なのでしょうか?(ひろしさんのコメント)

「どんなに暴れても」と私が書いたのは、「どれだけ逃げても逃がさぬお慈悲」という意味でかきました。逃げる姿、西に向かわず東に向かう姿とは煩悩具足の凡夫の姿なので、煩悩具足の姿のまま救われると言うことで書きました。

自力と言うのは、親鸞聖人がいわれるのは以下のものです。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。(御消息6

わが身をたのみ、わが計らいの心をもって三業を立派にして往生しようと思う心を自力といいます。
「三業を立派にして往生しようと思う心」が自力であって、「三業が立派にできると思う心」は自力とはいいません。

ひとつ気になりましたのは、「自力という丸太にしがみついているのでしょうね」といわれていましたが、自覚の上では違うということでしょうか?
「頭ではわかっている」ものと、実際の感じは違うとすれば、実際はどうなのかと思いました。

言葉の上では分かるし、自覚もあります。
しかし、私の自覚が自力かどうか、わかりません。
例え私が自力を自覚したからといって助かるのではありません。
そこから先が問題だと思います。(ひろしさんのコメント)

自覚というのが、コメントの文面の流れからすると、「自分は善ができると自惚れている」という自覚なのではないかと思いますが、そのあたりはいかがでしょうか?