安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「もっと」の思いが有るか無いかよりも差しだそうとする心は不要です(おすぎさんのコメント)

おすぎさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

ただ今救われる と教えて頂いてもなかなか救われません。時間が経てば経つほど 
焦る心が出て 言い訳する心で一杯になります。阿弥陀仏の本願に間違いはないのだから、自分の心がけに問題があると 考えてしまいます。そうすると 「もっと」の思いが 出てきます。
「もっと」の思いを持ったまま 救われるのでしょうか?。(おすぎさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091126/1259188978#c1259197314

回答します。
自分の心がけに問題があるというのも1つの考えです。しかし、自分の心がけだけが救われない原因とすると、それを自分で直せば救われることになりますので、自分で直してから、阿弥陀仏が初めて回向して下されると言うことになります。

阿弥陀仏の本願に間違いはありません。必ず救うと阿弥陀仏の大慈悲から、私に回向して下される法なのです。

真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば
不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(正像末和讃39

コメントにある「もっと」というのは、「自力の称念きらはるる」といわれたものと同じ心です。もっとと、いろいろなものをわがものとして阿弥陀仏の救済の為に差し出そうという心が自力の心であります。

回向しようと、もっとと出そうとするから捨てよといわれるのであって、阿弥陀仏の本願はもともと、弥陀の方から回向される法ですからそのままの救いです。

「もっと」も「考え」も最初から不要なので、ふりすてよといわれるのです。阿弥陀仏は、ただ今救うという御心ですから、私が「もっと」と差し出そうとしても、「そんなの関係ない」と先回りして救って下さるのです。
「もっと」という思いが良いのか悪いのかと、救いに結びつけるから捨てよといわれるのです。出そうとするから捨てよといわれるのです。不廻向の法ですから。
何を回向しても救いとは「何も関係ない」というのが阿弥陀仏の本願です。

救われるかどうかは、私の心の状態をみて決まることではありません。弥陀回向の南無阿弥陀仏によって救われるのですから、ただ今救われます。