寸暇を惜しんで仏法を聞いたとか、真剣に求めて行かれた話を聞くと、自分のような者は、とてもそのようになれないので、まだ救われないのではないかと思ってしまいます。(頂いた質問)
回答します。
他人の体験談を見聞きしますと、人によっては「とても自分とは境界の違う人だ」と思うようなことをしたと言われる方もあります。
そのような体験談を聞きますと、あのような立派な人にならなければ、真剣にならなければ、救われないと思ってしまいますがそうではありません。
善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。(歎異抄3章)
善人は善人のまま救われますし、悪人は悪人のまま救われるというのが阿弥陀仏の本願です。
私一人のための南無阿弥陀仏が、私を救って下さるのですから、善人は善人のための南無阿弥陀仏があり、悪人は悪人のための南無阿弥陀仏があるのです。
別の言い方をすれば、精進できるひとを救う南無阿弥陀仏もあれば、懈怠な人を救う南無阿弥陀仏もあるのです。自分が懈怠で、強い気持ちになれないと思っていても、その私を助けるための南無阿弥陀仏があるということです。
あの人のようにならねば救われないと言うことはありません。あの人はあの人で、私は私で救われるのが阿弥陀仏の本願です。