安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「まず○○しなさい」の本願ではありません(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

>救われない原因を私にもってくるというのは、ある意味あっています
どのような意味であっているのでしょうか?

阿弥陀仏に向かうと何とか救われようとしてしまいますが、すべて阿弥陀仏のお力だからと思い直し救われようが救われまいが阿弥陀仏のされることに手出ししないようにしようとします。ですがこれですと、救われなくても阿弥陀仏次第となってそうかなとも思うのですが、ただ今の救いになりません。”必ずただ今”なのですよね?
やはり、阿弥陀仏の側だけではない何かがあるように思えてなりません。
往生浄土のために私がすべきできることは何もないのはよく分かります。しかし、ただ今の救いに遇えるかどうかはまた別なのではないでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091118/1258505394#c1258556917

回答します。
救われない原因はどこにあるのか?という問いについては、自分が造った業が原因だと言えばそれは間違いになります。

おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず(教行信証信巻

「造罪の多少を論ぜず、修行の久近を論ぜず」ですから、私の善業・悪業そのものは関係有りません。

しかし、「救われなくても阿弥陀仏次第」となりますと、「自分が何もしないことによって救われよう」という考えになってしまいますので、それは間違いです。

阿弥陀仏の救いに手出しをするというのは、阿弥陀仏の必ず救うぞという仰せに対して先回りをしたり、救いに関して自分の持ち分を勝手に作り上げることを指していっています。
前提となっているのは、阿弥陀仏は常に私を救おうと働き続けておられると言うことです。現在ただ今も、私を助けようと喚びつづけておられるからただ今救われるのです。

何か原因があるのではというのは、コメントの内容からお答えしますと、「手出しさえしなければ良いだろう」と「手出しをしない」ことをしようとしているからです。それでは、私が先で、阿弥陀仏が回向されるのはその後になってしまいます。

如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり(正像末和讃38

阿弥陀仏の本願は、苦しみ悩む私を助けるために、回向することを第一として名号を完成されたのです。
「まず与える」「まず差し向ける」「まず救う」のが、阿弥陀仏の御心です。
「まず○○しなさい」ではありません。

「まず与える」といわれるが、何を先にしておいたらよいか?というのが、阿弥陀仏の救いに先回りをしているのです。
行政の防災対策パンフレットに以前、「グラッときたら!まず火の始末」というのがありました。
「まず」とは、「第一に」という意味です。阿弥陀仏の救いには、「まず回向」というのが「回向を首としたまいて」ということです。
阿弥陀仏からの本願力回向以外に、何もないのです。