ロシュさんからコメントを頂きました。有り難うございました。
自分のこころをどれだけ見てもそこにまことはないのだから、阿弥陀仏を仰いでくださいということをよく言われますが、どうしても自分の心にばかりとらわれてしまいます。また、自分の存在に対する苦しみと阿弥陀仏の救いというのが自分の中であまりにもかけ離れている感じもなくならず、どうしていけばいいのか分かりません。(ロシュさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091008/1254989295#c1255002363
回答します。
どうしても自分の心にとらわれるというのは、人間であるからこそ、そうなります。阿弥陀仏の方に、私を助ける南無阿弥陀仏が完成し、私に差し向けて下さっていると聞いても、自分の心を問題にしてしまいます。
それは、コメントして下さっているように、阿弥陀仏の救いと私がかけ離れているというように思われているからでしょう。
かけ離れているどころか、阿弥陀仏の救いといっても、私を助けるための本願ですから、私がいなければ、本願もないのです。私という言葉を使うなら、私のためだけに本願を建てて下されたのです。
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり(正像末和讃38)
阿弥陀如来がなぜ願を建てられたのかという御心をよくよく考えて見ますと、苦しみ悩む私を見捨てられずに、なんとか助けるために、南無阿弥陀仏を完成されたのです。
かけ離れているのではなく、当事者です。本願の正客という言い方もありますが、まさに私目当てに建てられた本願ですから、必ず救われる事があります。