安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

真剣に求める心になるにはどうしたらよいか?について(みかみさんのコメント)

みかみさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

質問させていただきます。
「真剣に求める心」になかなかならない者が、真剣になるためには、どうすればいいのでしょうか。
真剣になる心を起こさせてくださるのも阿弥陀仏の本願の働きによるのでしょうが…。
私も弥陀の本願を何年も頭で聞いていはいますが、熱く気持ちの高ぶっているときとそうでないときと、感情の波があるので情けないのです。
常時、真剣に弥陀に向かう心になっていなので、情けないです。
年々、いや、日に日に、弥陀に対して真剣さが増していくのが信仰の理想形と考えてしまう私の考えは、どう思われますでしょうか。(みかみさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080724/1216899280#c1253971450

回答します。
「日に日に真剣さが増していくのが信仰の理想」というのは、間違いです。
実際に救われた方や、妙好人といわれる方の言行録の中にはそういう方もあるでしょうが、それを自分に当てはめるのは間違いです。

将棋に例えますと、ある対局で「このような駒の進め方をした」という記録を見ていても、現在自分が将棋を指すときに、全く同じ駒の進め方をすることができないのと同じ事です。全く同じ棋譜が存在しないように、まったく同じ心の動きをする人はありません。
ある場面では同じ事があっても、最初から最後まで同じという人は、信仰を求める場合にはありません。

他人の体験談が、実際に信仰を求める人にとって功罪があるのはこの点です。
よい面は、その人と全く同じ悩みに対する一つの答えになることがある点です。
罪の面は、その体験をもって、自分の求道にあてはめてしまうことです。将棋でいえば、過去の棋譜通りに将棋を指して勝とうとするのです。しかし、将棋でも相手が必ず棋譜通りにならないように、私の心自体が過去に信仰を求めた人と全く同じようになるのではないということです。

実際に阿弥陀仏と対峙するのは、私です。阿弥陀仏という法の鏡に映し出される、私の心の姿は、顔が一人一人違うように、一人一人異なります。

気持ちに波があるといわれますが、信仰を求める間にはいろんな形で波があるものです。

不如実修行といへること 鸞師釈してのたまはく
一者信心あつからず 若存若亡するゆゑに(高僧和讃)

決定の信なきゆゑに 念相続せざるなり
念相続せざるゆゑ 決定の信をえざるなり(高僧和讃)

「これは」と思うことがあっても、続かないのが、若存若亡の心です。このまま行けば助かるのではと思うこともあれば、自分の姿をみれば現実助かっていないことに、気落ちすることがあります。

自分の心を、誠の心にしようと一生懸命見つめていても、決定の信がないからその思いも相続しません。

如何に真剣になるかではなく、阿弥陀仏の本願に向かい、ただ今救われることが大事です。