安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

謗法罪について考える(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントをいただきました。有り難うございました。

念仏誹謗の罪は恐ろしいといわれていますが、さして謗っている自覚もない、無邪気な心であってでもよくない行いだということでしょうか?なぜそんなに重い罪だと仏教で教えられるのでしょうか?(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090924/1253783454#c1253832747

回答します。
謗法罪とは、自覚も大事ですが、自覚無く造る場合もあると思います。

もう一つは、なぜ謗法罪が重い罪かといいますと、仏が嫌われている罪だからです。具体的にどんなことが謗法罪かというと法を自ら謗り、人にも謗らせることによって、自他共に苦しませることです。

謗法とはどういうことかについて、曇鸞大師はこのようにいわれています。

もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもって、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと(往生論註・注釈版聖典P298)

(大意)真実を覚った仏もいなければ、その法もないしでたらめだと否定すること。またそのように思い込んだり、人から聞いてそう思って宣伝するようなことを、みな誹謗正法と名付ける。

仏の説かれた正しい教えを信じなかったり、自分中心の考えで行動をすると、お互いが衝突し、自他共に苦しめることになります。

こういうことをいわれて自覚をしている人は、すでに謗法の罪を造っているということになります。

そこで、最初のお尋ねに関して、「自覚が無い場合も謗法になるのか」ということですが、阿弥陀仏の本願に救われるという事に関していえば、「ただ今救う」という本願を否定する心があれば、謗法罪ということになります。

しかし、親鸞聖人は本願に誓われた「唯除五逆誹謗正法」についてこのようにいわれています。
造っているから救わないという本願ではないのです。

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり(尊号真像銘文)

(大意)
「唯除五逆誹謗正法」とは、「唯除」とはただ除くということである。五逆罪を造った人を嫌い、謗法の罪の恐ろしさを知らせるためである。この二つの罪の重いことを示して、慚愧の心を起こさせて、全ての人をもらさず往生しなさいと知らせるお言葉である。

五逆罪、謗法罪の罪は仏が嫌い除かれている大変重い罪です。もちろん、恐ろしい罪だから造ってはならないということが最初にあります。

しかし、本来は、本願の目当てである私たちが、逆謗の機であるとはっきり知らせるためです。重い罪を重い罪と知らせて、慚愧の心を起こさせて心を生まれ変わらせ、南無阿弥陀仏を与えて、一人も漏らさず救おうとされているのが阿弥陀仏の善巧方便であるといわれているのです。

ただ、「このように懴悔しなければ救われない」という条件をつけていわれたものではありません。「逆悪もらさぬ誓願」といわれるように、阿弥陀仏の本願はどんな逆悪も救うのですから、「懺悔できたものだけ救う」ということではありません。

慚愧の心を起こさせるのも、阿弥陀仏のお仕事なのです。
ただ今の救いを、ただ今と思えずはねつけるので、救われると慚愧の心が起こされるのです。そのままといわれても、条件をつけようとするから、救われると法を謗っていたと知らされるのです。

では、何をしたらよいのかといえば、ただ今救われることです。
謗法罪を造らないことはとても大事な事です。しかし、阿弥陀仏は「謗法罪を造ったら救わないから造るな」と本願には誓っておられません。もらさず救うから、救われて下さいという仰せです。

繰り返しになりますが、だから謗法罪を造ってよいということはありません。「唯除五逆罪誹謗正法」といわれたのは、阿弥陀仏の大慈悲による善巧方便のお言葉で、私がそれに乗っかって悪をしてもよいということでもありませんし、他人を攻撃する言葉に使うものでもありません。