安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信一念が知覚できるか、できないかと、ただ今救われている自覚は異なります(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

質問です。
では何もハッキリしないのでしょうか?ハッキリするなら何がハッキリするのでしょうか?

ハッキリするかしないかは救いを求めている人にとっては重要なことです。
何もハッキリしないのであれば救われたことにならないと思います。それではその救いを求めようという気持ちも起きてきません。
弥陀に救いとられた人は、普通はハッキリするが、何らかの理由でハッキリしない場合もあるということであって、ハッキリしないのが普通というわけではないと思いますがいかがでしょうか?
ハッキリするという言葉自体が曖昧なのでわかりにくいのかも知れませんが。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090911/1252665912#c1252711899

回答します。
確かにハッキリするという言葉自体に、曖昧なところがありますので、別の言葉で置き換えながら回答します。

結論から言います。
信一念は、人間に知覚できません。時尅の極促だからです。
阿弥陀仏に救われて、他力の信心を獲得しているという自覚はあります。

しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆえに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。(御文章2帖目13通)

御文章に有りますが、「他力の信心ということをば今既にえたり」とか、「弥陀如来他力の大信心と言うことは、今こそ明らかに知られたり」というのは、これは、救われた方が、現在の信心はどうなのかということです。

御文章を書かれた当時の蓮如上人が、「他力の信心を今既に獲得している」、「現在明らかに知らされている」ということをいわれているのです。

救われた信の一念を、知覚したということではありません。

救われた信の一念の体験の有無を問題にすると「その時の体験の真偽」が問題になってしまいます。
「あのとき泣けたのがそうだったのか?」
「あのとき喜べたのがそうだったのか?」

どんな体験をしたにしろ、それは過去ことであって、問題は、現在ただ今救われているかどうかです。その体験の真偽が判定されなければ、自分が救われているかどうかが決まらないというような信心は、真実信心ではありません。

弥陀他力回向の信心ですから、正信偈には

往還回向由他力(往還の回向は他力による)

といわれています。