安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

一念でハッキリ救われた!と実体験させられるか?(手品師さんの質問)

手品師さんから、メールで質問を頂きました。

信心決定は阿弥陀仏から一念で賜り、ハッキリ救われた!と実体験させられると聞
いています。
その体験は、個々人によって違うのでしょうか?
(例)

  • 火箸に触った以上にハッキリ知らされる、仏教書を読んでいたら、自分が救われていることを知らされた等
  • 親鸞会のアニメ1部で親鸞聖人が救われるシーンのような救われ方
  • いつとはなしに救われる(手品師さんからの質問)

回答します。

阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を賜るのは一念ですが、その一念がハッキリと知らされることはありません。
自覚でき(知覚した)たときは、救われた後です。

主語を阿弥陀仏に変えて言い換えますと
「阿弥陀仏が私に、南無阿弥陀仏を与えるのは一念です」

「それ真実の信楽を按ずるに、信楽に一念有り。『一念』とは、これ信楽開発の時尅の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(教行信証信巻)

それを私が知覚するのは、「信楽開発の時尅の極促」である一念の後です。

ですから、「自覚した体験(知覚できた体験)」は、「阿弥陀仏が私に南無阿弥陀仏を与えた一念」の体験ではありません。
「時剋の極促」の一念は、不可思議であり、あまりの早さに知覚はできないということです。

一方、救われた後に自覚するのは、一人一人異なります。
「阿弥陀仏が私に南無阿弥陀仏を与えた一念」の○秒後、○分後、○時間後にどんな人も必ず知覚するというように決まったものではありません。
知覚する時間が変われば、場所も変わります。獲信の体験記が一人一人異なるのはそのためです。

この「救われる」という言葉は、イコール「知覚」の問題ではありません。阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を一念で賜ったことを、救われると言います。

仮に、臨終に南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から一念で賜った人が、その直後に亡くなられた場合は、知覚(自覚)できたかどうかもわかりません。では、喜ぶ心や、報謝の心が知覚として現れていなかったから、往生浄土できないのか?といえば、そうではありません。
南無阿弥陀仏を一念で阿弥陀仏から賜ったのが、信心ですから、信心一つで往生浄土させていただけるのです。

質問にあったような、「火にさわったよりもハッキリした」「アニメ第1部の最後のように「ハッと」なった」「いつとはなしに」というのは、いずれも三業の上に現れた知覚の問題です。

そのような知覚(自覚)は、信心獲得の一念の後です。
よって、阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を頂いた後に、火にさわったよりもハッキリしたという体験をされる方もあるでしょう。阿弥陀仏に救われた後に、いつとは無しにという人もあるでしょう。

しかし、いずれも、どんな体験をしたと言っても、その体験を知覚したその時が、救われたときではありません。

ですから、「何か凄い体験=獲信の一念」と思うのは間違いです。どんな体験をされるかは、人によっては異なるでしょうが、それは、獲信の一念、時尅の極促の後の話です。同じではありません。

ハッキリするかしないかは、救われた後の事なので、それほど問題にすることではありません。
それよりも、ただ今阿弥陀仏に救われるか、救われないかが問題です。助かるか、助からないかが問題です。

南無阿弥陀仏を頂いて、信心獲得の身に救われなければ、往生浄土はできません。私がどんな体験を、その後にするかどうかは、往生とは関係の無いことです。