フーテンの虎さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
私は今まで、死んだら地獄、一切衆生必堕無間、とお聞きして、本当なら恐ろしいことだし、この世で解決できるともお聞きしたのでこれまで求めてきました。最近、あるサイトで、地獄に堕ちる人はみんなではない。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090821/1250861116#c1250922698
堕ちる人もあり、堕ちない人もいるという内容のことが書かれていました。それならば、何のために阿弥陀仏の本願を求めるのか。無理して求めなくてもいいのではないか。別に死んで地獄に行かなければ、それでいいではないか。という心が出てきたのです。(フーテンの虎さんのコメント)
これについては、ひろみさん、匿名さん、ソイさん、よこやりさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
回答します。
人によって、何をきっかけに仏法を聞くようになったかは異なりますが、往生浄土したいと思ってのことではないかと思います。
フーテンの虎さんが、「死んだら地獄」と聞いて求めてきたとありますが、一方「この世で解決できる」と聞いて求めてきたとのことです。
「地獄へ堕ちたくない」と「解決できる」のどちらに魅力を感じて聞き始めたかによって回答も変わります。
ひとつことをいくたび聴聞申すとも、めづらしく初めたるやうにあるべきなり。(御一代記聞書 130)
一つのことを聞いても、初めて聞くようにしなさいと、御一代記聞書にありますが、最初聞き始めたときの気持ちというのがとても大事です。
文面から推察しますと、後生の地獄は半信半疑でも、この世で解決できるという点に魅力を感じて聞き始められたのではないかと思います。
この世で解決できるというのは、結果として往生浄土することになりますので、この世で往生浄土する身になれるということで仏法を聞いてこられたのではないでしょうか。
地獄ということが、あまりにも強調されるので、地獄へ堕ちたくないということが、目的にすりかわってしまったのではないかと思います。
如来の誓願を信じて一念の疑心なき時は、いかに地獄へ堕ちんと思うとも、弥陀如来の摂取の光明に摂め取られまいらせたらん身は、わが計にて地獄へも堕ちずして、極楽に参るべき身なるが故なり。(御文章2帖目4通)
阿弥陀如来に救われれば、どれだけ地獄へ堕ちると思っていても、摂取の光明におさめとられているので、自分の思いでは地獄へは堕ちず、極楽に参ることができるのだといわれています。
結果として、阿弥陀仏に救われれば、地獄ではなく、極楽に往生することができます。
地獄へ堕ちたくないという気持ちが強いといっても、極楽へ往生したいという心が全く無かったということはなかったとおもいます。
地獄へ堕ちなくて、極楽へ往かないという阿弥陀仏の救いはありません。浄土往生させるというのが、阿弥陀仏の本願です。
加えて言いますと、「無理して」求めるのが真実信心ではありません。真剣に求めると言うことと、無理して求めると言うことは同じではありません。
何かを犠牲にして獲られる信心ではないからです。