安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「善をすれば、無常と罪悪が知らされて・・」をすると無力感におちいる件(ついでに言わせてさんのコメント)

ついでに言わせて さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私自身は、目的は、厭離穢土、欣求浄土、死後は六道輪廻、善をしていくうちに無常、罪悪が知らされ、救われるのではなく、阿弥陀仏に疑情を晴らしていただく事と思っていました。(ついでに言わせてさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090812/1250080410#c1250388852

質問コメントではありませんが、「善をしていくうちに無常、罪悪が知らされ、救われるのではなく」という点について、思うことを書きます。

「善をしていくうちに無常、罪悪が知らされて、救われる」と本当に思えるか?

教義的なこと以前に、「善をしていくうちに無常、罪悪が知らされて、救われる」ように実際思えるかどうかという問題があります。

このように言われる方は、善を実行されているのですから、10年前より、5年前、3年前、1年前と、無常や罪悪についての知らされ方が当然変わっているはずです。
他人のことは分かりませんので、自分のことを振り返ってみると、仏法を聞き始めて、1年目、2年目、3年目と聞いていっても、無常について、罪悪についての感じ方は、それ以前と全く変わりませんでした。

知識として、「こういうことも罪悪なのか」ということは分かりましたが、「見えてくる」「より深くなる」という感覚はありませんでした。聞き始めたときから、私の心の底はまるで変わらないのです。

変わらないから、なおさら善をすれば知らされると思われる方もあるようですが、それによって多少でも見えてくるものがあれば、言われたとおりと思う部分もあるでしょうが、真実信心に向かおうと思ったときには何も心は変わっていないのではないでしょうか。
この心が変わらないというのは、阿弥陀仏の救いに向かっての心です。他人に対して、組織の規範から外れることに対する罪悪観は多少変わるでしょうが、それは阿弥陀仏の救いとは関係ありません。

老少善悪の人をえらばず

阿弥陀仏の救いは、他人に対してどれだけ罪を造ったかで救われるか救われないかで決まるものではありません。また、組織の規範から外れたから救われないというものではありません。そんな組織があれば、それは阿弥陀仏に代わって私を救うものだということになります。
私を救うのはあくまでも阿弥陀仏であって、人でも組織でも有りません。

また、罪悪の自覚の多少、無常の自覚の多少できまるものでもありません。

罪悪や、無常が知らされて救われるのなら、救われた人は、まだ救われていない人に比べて必ず罪悪や、無常を強く感じていなければなりません。

どれほど無常を感じているといっても、それよりも無常を感じている人も多いでしょうし、どれほど罪悪を感じているといっても、自分より深い人は世の中いくらでもいるものです。

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすとしるべし。(歎異抄)

阿弥陀仏の本願は、年齢や善をどれだけ励んだか、悪をどれだけ知らされたかという差別はありません、ただ信心獲得したかどうかなのだといわれています。

ただ今阿弥陀仏に救われるかどうかと心の底を覗けば、善をして、悪が知らされる、無常が知らされると言うことは、全くありません。ですから、まじめにやればやるほど、自分のやっていることが阿弥陀仏の救いと結びつきませんので人は、「阿弥陀仏に救われよう」という意欲そのものを失ってしまいます。

学習性無力感という言葉

最近読んだ本からの引用です。

コントロール感覚が持てないと心身ともに疲れ切ってくるのは、動物一般に見られる現象です。(略)心理学者セリグマンの学習性無力感の研究からも分かります。これは「自分が何をやっても無駄だと思うと動物は何もしなくなる」ということを動物を使って実証した研究です。(
「うつ」を治す (PHP新書)ーP123)

どういう実験か、簡単に説明しますと、電気ショックを流し、一方は目の前にあるスイッチを押すと逃れられる犬と、もう一方はスイッチを押しても逃げられない犬の二つに分けて実験をします。
これを繰り返すと、スイッチを押しても逃げられない犬は何をしても駄目だと思うようになり、電流を流してもそれから逃れようという動きが遅くなります。
この二通りの犬を、低い柵を越えれば電気ショックから逃れる装置に入れた場合、スイッチを押せば電気ショックが止まった犬は柵を越えてショックを逃れましたが、逃げられないと学習した犬は低い柵も越えようとせず電気ショックの柵の中に止まったというものです。

生活上の善の勧めは仏教にもちろんあります。
しかし、阿弥陀仏に救われる為に善をしても、私のやった善の結果として助かることはありませんから、次第に心身ともに疲れ切っていくのは、上記のセリグマンの学習性無力感の研究と同じです。

やればやるほど、心身ともに疲れ切った先にあるもの

善をしても駄目、無常を感じろといわれても駄目、罪悪を感じろと言われても駄目、そのうえ、真剣にやっていないから、わかっていないからと自分を責めていけば、往生浄土しようという意欲まで奪われてしまいます。

往生浄土のために、役立つことができないものだから、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏を成就されたのです。その南無阿弥陀仏を阿弥陀仏より回向していただいたのが、他力の信心です。
その信心一つで、ただ今救われるのが、浄土真宗の教えです。