安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

五雑行と「これは外道なり」の違い(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「五雑行は行い自体悪いから捨てよ」と教えられてきたのは、親鸞聖人の教えとは違うということでしょうか?(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090723/1248323366#c1248357417

回答します。結論から言うと違います。理由は、五雑行の定義が違うからです。
あほうどりさんのコメントにも雑行の本来の定義がコメントされています。
そこにいくつか紹介されていますが、そのうちの一つをあげます。

それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。 (教行信証化土巻本 雑行釈)

むずかしい言葉が並ぶので、簡単に説明しますと、「雑」とは、聖道仏教の諸善万行をおさめる。五正行にたいする五雑行のことです。「雑」は、人間界に生まれる因や天上界に生まれる因、菩薩の行などがいろいろ雑じっているから「雑」というのです。もとから、それらは往生浄土することができる行いではないですが、心をひるがえして、浄土へ往こうという気持ちでする善ですから、「浄土の雑行」というのだと言われています。

さらに要約すると、弥陀の浄土に往生し、仏のさとりを開こうという心で、五正行以外の行をするのを雑行といいます。
弥陀の浄土に往生し、仏のさとりを開こうという心で、諸仏や菩薩や諸神に読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆供養するのが、五雑行です。

一方、親鸞会の教学聖典ではどう書かれているかというと

親鸞会発行教学聖典5号
問(38) 「雑行」に五つあるが列記し、簡単な説明をせよ。

答(38)
(1)読誦雑行―後生の一大事を助かろうとして、浄土三部経以外のお経を読む行為。
(2)観察雑行―後生の一大事を助かろうとして、阿弥陀如来以外の仏や菩薩や神を思い浮かべる行為。
(3)礼拝雑行―後生の一大事を助かろうとして、阿弥陀如来以外の仏や菩薩や神を礼拝する行為。
(4)称名雑行―後生の一大事を助かろうとして、阿弥陀如来以外の仏や菩薩や神の名を称える行為。
(5)讃嘆供養雑行―後生の一大事を助かろうとして、阿弥陀如来以外の仏や菩薩や神を誉めたり、供養したりする行為。

「後生の一大事助かろうとして」というのが、意味が曖昧です。
本来は、「弥陀の浄土に往生し、仏のさとりを開こうという心」ですから、これでは間違いになります。
「後生の一大事助かる」=「弥陀の浄土に往生する」ことだというのかもしれませんが、そのように聞いている人はほとんどないと思います。

たとえば、釈迦如来に礼拝するというのは、聖道仏教での諸善万行の一つですが、その諸善を弥陀の浄土に心を向けて、往生の足しにしようと回向することを、礼拝雑行といいます。だから、浄土の雑行といわれるのです。
禅宗の人が釈迦如来に礼拝するのは、真宗から言えば、余行であって(浄土の)雑行ではありません。
ですから、上記の教学聖典の続きにあげられている問題も意味が曖昧です。

親鸞会発行教学聖典5号
問(39) 「五正行」と「五雑行」との一貫した違いを示せ。

答(39)
○阿弥陀如来一仏に、向くか、向かないか。

どちらも「弥陀の浄土に往生する」という点では一致しているのですから、このように書くのは誤解を招きます。五雑行では、阿弥陀如来の浄土に往生する気持ちもないというように思う人もあります。

では、「五雑行は行い自体悪いから捨てよ」とはどう理解すればよいかといいますと、「五雑行(浄土の雑行)は、行い自体は往生浄土の因ではない(=悪い)から、それにすがる心(自力の心)を捨てよ」と解釈しなければおかしくなります。「悪い」とは、それによって助からないという意味になります。
ただ、この親鸞会発行教学聖典を見る限りはそのように聞いている人はほとんどないでしょう。

しかし、「行い自体が悪いから捨てよ」というと、諸仏に手を合わすこと自体が悪いという意味にしか読めません。

これは、浄土往生が目的でない、いわゆる現世利益や、聖道仏教の覚りをもとめての行と混同しているのだと思われます。

聖道・外道におもむきて余行を修し余仏を念ず、吉日・良辰をえらび、占相・祭祀をこのむものなり、これは外道なり、これはひとえに自力をたのむものなり。(一念多念証文)

上記の、聖道仏教の寺や、神社に行って礼拝などをするのは、その仏や神に利益を祈願してのことです。また日の善し悪し、占いなども、外道ですから、いづれも浄土往生が目的になっていません。ですから、「これは外道なり」といわれているように、「(浄土の)雑行」ではありません。

弥陀の浄土を願わず、現世利益などを目的に神社や聖道仏教の寺に行こうというのは、「これは外道なり」とまでいわれています。捨てよといわれたのはこちらの方です。

浄土往生が目的となれば、確かに現世利益を求めて神社に行く必要はないのですが、現世利益を神に求める迷った心は根強いので強く戒められました。
浄土の雑行という意味の五雑行と、親鸞聖人が「これは外道なり」と言われた余行を混同しているところからくる質問だと思います。

祭ってあるものをあてにする心がなければ、行ったり見たりすることはかまわないということでしょうか?(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090723/1248323366#c1248357417

かまわないというよりは、自ら行く理由はなにもありません。
何かのことで目に入ったり、前を通ったりしたから「弥陀の浄土に往けなくなるのではないか」ということにかまう必要はありません。

今までS会では、行い自体悪いと教えられてきたから、神社の近くを通るのも避けてきましたし、現に見るのも嫌だという気持ちがあります。
今信じる心がなくても迷いやすい心だから(悪縁になるから)遠ざけた方がいいということはないでしょうか?(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090723/1248323366#c1248357417

行い自体が悪いというのは、雑行ではなく、外道だからです。
仏法を信じ、弥陀の浄土に向かう人は、神社に行くというのは悪いというのではなく、行く必要が無いと言うことです。もちろん、迷いが深いのが人間ですから、近づかない方がいいです。