安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

心常念悪と疑い晴れるのではなく、出離の縁あることなしと深信します(メールで頂いた質問)

あるブログをみていると

心常念悪を心常念悪と疑い晴れたいうことは、はるかに人智を超えている。ちょっと聞いて分かることではありえない。

http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/f6a21f4d71ec1e93bd2f869df9d32798

とありました、私もそのように考えていたのですが、阿弥陀仏に救われ、無明の闇が晴れると、心常念悪に疑いが晴れるということなのでしょうか(メールで頂いた質問)

メールの文中に、掲載されたブログのURLが書いてあったので、このエントリーをトラックバックしてみました。

回答します。
結論から言いますと、阿弥陀仏に救われて知らされる姿は、機の深信であって心常念悪ではありません。
機の深信とは、以下のお言葉です。

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

ここにあるように、はるか過去から現在も、出離の縁があることの無かった自分であると、深信したことをいいます。深信とは、深く信ずると言うことですが、露チリの疑心が無くなったと言うことです。

ここで、疑心という言葉は、疑情であり、自力の心のことなのですが、疑煩悩とイメージが重なりやすいので、別の言葉で「条件をつける心」とします。
機の深信が立つまえ、阿弥陀仏に救われる前は、「出離の縁あることなし」ということにも「条件をつける心」で条件をつけます。

たとえば「極悪の自己が知らされねば」出離の縁はあることなしである。
「心常念悪と知らされねば」出離の縁あることなしである。
「心常念悪だから」出離の縁有ること無しである。
「聞法心が弱いから」出離の縁あることなしである。

救われない自分に条件をつける心が、自力の心です。条件があると思うから、自分の心にいろいろと条件をつけ、勝手にコーチをする心です。
「もっと自己を見つめよ」
「もっと悪を見つめよ」
「もっと強い聞法心を起こせ」
「もっと命がけになれ」
そうならないと、助からないぞ、救われないぞという心が条件をつける心であり、自力と言うのです。阿弥陀仏にかわって、かってに条件をつけ自分をコーチするのです。

阿弥陀仏に救われれば、条件をつける心がなくなるのですから、無条件に助からないと知らされるのが、機の深信です。
無条件に救うのが、阿弥陀仏の本願です。本願について条件をつける心がなくなるので、これを法の深信といいます。
無条件に救われない自己の姿が知らされるのが、機の深信です。

ですから、心常念悪だからと条件をつけるのは、自己の姿に条件をつけているので、救われて出てくる言葉ではありません。