安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

考えることが悪いのではありません(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

思うままに書かせていただきます。
阿弥陀仏の仰せに従うとはどのようなことなのでしょうか?
阿弥陀仏と知恵比べをするのはどうして悪いのでしょうか?
阿弥陀仏が知恵比べに負けているのでしょうか?
阿弥陀仏の上に立つ心がなぜ悪いのでしょうか?
考えるのは悪いのでしょうか?考えるなということでしょうか?
それくらいのことで救われないのか、阿弥陀仏のお力とはそんな程度なのか、というように思ってしまいます。
でも本当にそうなのではないでしょうか?だから悪いのではないでしょうか?それならばそれを捨てよと言われるのも分かります。
現に今救われていないのですから。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090617/1245240557#c1245271066

回答します。

阿弥陀仏の仰せに従うとはどのようなことなのでしょうか?(同上)

阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を受け取ることをいいます。阿弥陀仏は、私を助けるために南無阿弥陀仏を成就され、南無阿弥陀仏を与えるために常に働いておられます。
南無阿弥陀仏は、どれほど功徳があるかと知っていても、信じる心がなければ受け取ることが出来ません。日常生活でも、何か他人から頂くときには、相手を信じなければ受け取ることはできません。
あくまで譬えですが、見知らぬ他人から、道ばたでとつぜん「差し上げます」とプレゼントを渡されても、信じられない相手からは受け取ることができません。信用している相手でも、突然「あげます」と言われれば、躊躇したり、遠慮するものではないでしょうか?
「結婚祝いです」「出産祝いです」「入学祝いです」と現金を出されれば受け取る間柄でも、何も言わずに突然現金を出されたら「どうして?」「何のお金ですか?」と素直に受け取れないものです。なにか理由を聞かされれば、「そういうことでしたか」と疑い晴れて受け取ることができます。

これはあくまで譬えですが、阿弥陀仏を信ずる心がないものには、南無阿弥陀仏を受け取ることはできません。そこで、南無阿弥陀仏の、「南無」は、「信ずる心」「信じさせる」「疑いを晴らす」働きがあります。

「南無」の言は帰命なり。「帰命」は本願招喚の勅命なり。(教行信証行巻)

南無というのは帰命であり、帰命とは、本願の呼び出し命令だといわれています。呼び出し命令とは、「そのまま来い」の仰せともいいます。南無阿弥陀仏でいえば、「そのまま受け取れ」ということです。

帰命と申すは如来の勅命に順いたてまつるなり。(尊号真像銘文)

帰命とは、阿弥陀仏の命令に従うことなのだということです。
「信じろ」という仰せに「わかりました」と信じることなのです。
「受け取れ」という仰せに「わかりました」と受け取ることです。
「助ける」という仰せに「わかりました」と助かることです。

阿弥陀仏と知恵比べをするのはどうして悪いのでしょうか?
阿弥陀仏が知恵比べに負けているのでしょうか?
阿弥陀仏の上に立つ心がなぜ悪いのでしょうか?(Kさんのコメント)

阿弥陀仏が知恵比べに負けるのではありません。
阿弥陀仏と知恵比べをするということは、先ほどの知人からのプレゼントで喩えますと、「これは何ですか?」「どうして下さるんですか?」「何かあるんじゃないですか?」と相手の意図をいろいろ計らって受け取らない状態です。

日常のプレゼントでは、受け取らなくても特段自分がこまることは無いかも知れません。
しかし、南無阿弥陀仏は受け取らないと生死を離れることはできません。浄土往生できません。しかも、あれこれ計らっているうちに、無常はいつやってくるかわからないのです。
阿弥陀仏の立場で見ますと、あとは受け取る一つなのに、受け取らないばかりに無常を迎えれば、阿弥陀仏のご苦労が無駄になります。阿弥陀仏を悲しませることになります。

受け取れば相手が必ず幸福になるプレゼントを、大変な苦労をして用意したのに、相手があれこれ計らって受け取らなければ、用意した人はどんな気持ちになるでしょうか?まして、「こんなもの要らない」とはねつけたなら、悲しいぐらいではすみません。

考えるのは悪いのでしょうか?考えるなということでしょうか?(同上)

考えることは大事な事です。考えるなということではありません。
考えるなと言うのは、「考えないようにしよう」と考えているのだから同じ事です。
阿弥陀仏は「考えるな」とは言われていません。「信じろ」と言われているのです。加えて「勅命に順いたてまつる」のであって、私や人のいうことに従うのではありません。
真剣に「ただ今助かりたい」と悩み、考えることは大事な事です。これは「助かりたい」であって、観念の遊戯ではありません。「人というものはどうすれば助かるのか」「人はなぜ助からないのか」と、観察し、思考するのが観念の遊戯です。
「ただ今助かりたい」が抜けた考えは、観念の遊戯です。

それくらいのことで救われないのか、阿弥陀仏のお力とはそんな程度なのか、というように思ってしまいます。
でも本当にそうなのではないでしょうか?だから悪いのではないでしょうか?それならばそれを捨てよと言われるのも分かります。
現に今救われていないのですから。(Kさんのコメント)

阿弥陀仏のお力には限りがありません。
何が悪いかといわれれば、救われていないことが阿弥陀仏に対して悪いのです。
ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。