安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

善悪にこだわるのは倫理であって、阿弥陀仏の本願(悪人正機)ではありません

メールで頂いた質問の中で、質問以外の部分で思うところが有りましたので、エントリーをします。

過去無量劫から弥陀の本願を疑い続けてきた,そして今も疑い続けている心があると思います。煩悩でつくりにつくった恐ろしい悪ももちろんですが,何よりも弥陀の本願を疑い続けてきた悪以上の悪はないと思います。(メールで頂いた質問)

「悪いことをしたから助からない」「善いことをしたから助かる、または、早く助かる」という思いは、宗教全般において多くの人が考えることです。
しかし、阿弥陀仏の本願の救いはそうではありません。
有名な歎異抄の悪人正機とは、それを端的に教えられたものです。

善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや。(歎異抄3章)

善悪を論じるというのは、倫理の問題です。これはよいことなのか、悪いことなのか、善いことをしている人は必ず善いことが起きなければならない、悪いことをしている人は悪い結果を受けなければならないと思っています。これは社会通念や、倫理の問題としてはそれでなんの問題はありません。

この世のことでは確かにそうです。しかし、一方この世のことでも、いろいろなことでそうはなっていないように思える現象も多々あります。

この世の幸不幸の話を、弥陀の救いにもっていくと、それは性質が違うので話があわなくなります。
「善人でさえ救われるのだから、悪人はなお救われる」といわれたお言葉は、倫理的な善悪に対して、そういうことを論じるのは阿弥陀仏の救いとは違うのだと言うことをわかりやすく仰ったお言葉です。

これを、また倫理的な感覚で読んで「善を勧めないのは間違い」とか「誰でも救われると言うがそれは間違い」「善を勧めるのは当然」と善悪の話を強弁するのは、阿弥陀仏の本願の聞き間違いなのです。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あわれみたまいて願をおこしたまう本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、最も往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。 (歎異抄3章)

煩悩だらけの私たちは、どんな行いをしても生死流転を離れることができないので、それを憐れに思われて阿弥陀仏は本願をおこされた。その本当の御心は、自らの力で仏になることができないもの(悪人)を助けるためのものだから、阿弥陀仏をたのむ悪人が、往生浄土するものなのだ。だから、善人でこそ助かるのだから、まして悪人はなおたすかるのだと言われた。

煩悩で作った業もあります、本願を疑うということもありますが、しかし、その悪業を作ったから極楽往生できないのではありません。そういうものを目当てに本願は建てられているのですから、「悪い行いをしたから助からない」のではなく、「他力をたのみたてまつる」身になっていないから助からないのです。

原因無くして結果は起きませんから、往生浄土できないという結果は、南無阿弥陀仏の名号を受け取っていないからであって、悪業が多くあるからではないのです。