安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の都合と私の都合(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

善の勧めについてもやはり気になるのですが、底無し沼のように思えますし、そこにエネルギーを注ぐよりも自力他力の水際をお聞きしたいと思います。
自力の心、分かったような気がしたのですが分かってないと思います。
ときどき思えてくるのは「阿弥陀仏は阿弥陀仏の都合で本願を建てられただけで私の都合など本当はどうでもいいのではないか」というような心です。疑いといえば疑いです。でも疑情かどうかわかりません。
このまま死ねば、何も分かってないまま終わってしまうような気がします。
何度も同じことをお尋ねしているようで申し訳ないのですがよろしくお願いします。
(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081111/1226397978#c1240234605

Kさんの言われるように、「善の勧め」問題は、「自分自身がただ今阿弥陀仏に救われること」と無関係ですから、追求すれば底なし沼のように思われるのも当然だと思います。
お尋ねの部分ですが「「阿弥陀仏は阿弥陀仏の都合で本願を建てられただけで私の都合など本当はどうでもいいのではないか」とは、「阿弥陀仏が勝手に本願を建てられたのだから、私がどう思うとか、自力があるとかないとか関係ないではないか」という意味でしょうか。
そういう意味であるという前提で回答します。
その心は、さらに言えば「勝手に助けるといって本願を建てたのだから早く助けなさい」と阿弥陀仏に不平を言う心ということになります。
これが「疑い(煩悩)」か「疑情」かというお尋ねですが、それは煩悩です。

阿弥陀仏の本願というのは、私たちがお願いをして、その依頼に応じて阿弥陀仏が本願を建てられた訳ではありません。

爰に弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの諸仏に捨てられたる末代不善の凡夫・五障三従の女人をば弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という超世の大願を発して(御文章2帖目8通・本師本仏)

阿弥陀如来だけが、諸仏に捨てられた私たちを「われひとり助けん」というこの世にない本願を建てられたと蓮如上人も書かれています。
これは、諸仏にお願いしても駄目だったので、阿弥陀仏にお願いしたら、その依頼に応じて阿弥陀仏が本願を建てられたということではありません。
いわば「たのみもしないのに本願を建てられて、阿弥陀仏の方から名号を与えてくだされる」ということです。依頼に応じてということであるならば、私たちからなにか差し向ける(廻向)ものが必要です。しかし、阿弥陀仏の本願には私たちから差し向けるものはありません。阿弥陀仏の方から差し向けて下されるのです。

「廻向」は本願の名号をもって十方の衆生に与えたまう御法なり。(一念多念証文)

廻向というのは、阿弥陀仏が本願によってつくられた名号をすべての人に与えて下されるということなのだと言われています。

それならば、早く助けて下さってもよさそうなものだとか、思われるかもしませんが、阿弥陀仏が自力を破って下さるのなら、結局私が悩む必要はないではないかと思われるかもしれません。

結果から言えば、私が「何かをしたから」助かったということはありません。
言葉で言えば難しいところですが、「阿弥陀仏に不平をいう心」は、煩悩の1つですが、「だからどうしろというのだ、何かしたらどうにかなるのか?」というこころは疑情であり、すてねばならない自力の心なのです。

阿弥陀仏はなんとか名号を与えようと常に働いておられます。
ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。