安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

領解文と三願転入について(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「蓮如上人の『もろもろの雑行・雑修・自力の心をふりすてて』が、19願20願を教えられているのだから、蓮如上人も常に三願転入を教えられている」と言われました。私は18願を教えられたお言葉のように感じるのですが、もし三願転入を教えられているとすると、19願を「誠の心で善をしなさい」ではなく「雑行を捨てよ」と蓮如上人は教えて行かれたことになります。(持たないものに捨てよとは言われないから、直接書かれていなくても、善を勧められている大前提があっての言葉だとの講師の話です)正直???です。
(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090409/1239265511#c1239318424

蓮如上人の領解文についてのお尋ねです。

もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」とたのみ申して候。たのむ一念のとき、往生一定・御たすけ治定とぞんじ、この上の称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候。(領解文)

お尋ねの件ですが、蓮如上人も常に三願転入を教えられているという話の割には、maryさんがお尋ねの会では領解文の話はあまり聞いたことがありません。
雑行のものがら自体は、諸善万行、雑修は五正行(念仏)なので、それぞれ19願、20願と当てはめて話をしているのだと思います。どうも蓮如上人も善を勧められたということが言いたいようなのですが、話を領解文にもってくると混乱すると思います。

この領解文の意味は、「たのむ一念」についていわれたものです。「たのむ一念」に「もろもろの雑行・雑修・自力の心を振り捨てて」、「一心に『阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御助け候え』とたのみ申して候」するのだと言われています。自力の心を振り捨てて、阿弥陀仏をたのめと言われているお言葉です。それが往生一定となった、たのむ一念のときであるといわれています。

(持たないものに捨てよとは言われないから、直接書かれていなくても、善を勧められている大前提があっての言葉だとの講師の話です)正直???です。

「仏教では」善のすすめは、大前提です。蓮如上人も勧められました。
「たのむ一念では」諸善をしろとはありません。雑行・雑修・自力の心を振り捨てよと言われています。この「仏教では」と「たのむ一念では」を混同しているところからくる混乱です。

この「蓮如上人も三願転入を教えられている」という「三願転入」は、区別をつけるために【その人がいう三願転入】とします。
【その人がいう三願転入】とは、以下のようなものを想定しているのだと思います。

  1. まず諸善を真剣に実行する(19願のステージ)
  2. 善の出来ない自分が知らされる
  3. 念仏を称えずにおれなくなる(20願のステージ)
  4. 念仏も善も間に合わなかったと知らされる
  5. 自力無功とハッキリ知らされる
  6. と同時に阿弥陀仏に救われる(18願に転入)

上記のように書くと【そのひとがいう三願転入】と領解文は、まったく異なるものを指しているということになります。同じだというならば、「たのむ一念で三願転入する」といって、違和感を感じないはずです。
ただ【そのひとがいう三願転入】では、「たのむ一念で三願転入する」ことはできません。

持たないものを捨てよとは、誰もいわれませんが、捨てるべきものがらは、自力の心であって、諸善を実行して知らされるとか知らされないとかいうこととは関係ありません。あくまでも阿弥陀仏のただ今の救いに向かうかどうかなのです。諸善をしたから、自力の心が問題になると言うような関係性はありません。関係があるならば、「諸善をしなければ救われない」と言うことになってしまいます。

また、体失不体失往生のジョウ論(く口伝抄)で善恵房に対して「諸行往生の機だから本願にあらず」と言われているので、法然上人が「誠の心で弥陀の浄土に生まれたいとおもって善をしなさい。そうすれば助かりますよ。」と教えておられたとは思えません。
19願20願の、善知識の教えられ方はどうなのか、ということだとは思うのですが、難しい話になってきて???です。

本願にあらずというのは、阿弥陀仏の18願の救いではないということです。現在ただ今の救いではないという意味です。
前段については回答をいたしましたので、後段についてまたご不明な点があれば、お尋ね下さい。よろしくお願いいたします。