安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

助かる自分という心が無くなったらどうなる?(カナダ人さんのコメント)

カナダ人さんよりコメントを頂き有り難うございました。

なるほど私は邪見驕慢(煩悩)の親玉で、三世の諸仏の悲願に洩れて捨て果てられ、本願にも除かれている機である、と懇ろに聞かされても、今となっては「今さらそれがどないしたん」「そんなことどうでもええわ」というような心しか出てきません。
勝手なお願いで申し訳ありませんが、今の私の思いを書かせてください。どれだけお諭し下さっても私の「助かる自分だと思う心(自力の心)」は、廃りません。「助かる自分だと思う心」は、私のすべて、私の命です。どれだけ理屈が分かろうが、どれだけ仏願の生起本末を諭されようが、どれだけ阿弥陀仏の頭の上に立っていると言われようが、どれだけ自分の値打ちやものがらを聞かされようが、どれだけお慈悲を聞かされようが、どれだけ無条件のそのままのお救いと教えられようが、どんなお諭しを頂こうが、何を言われようが、私には分かりません。何を言われても私には無理、ダメです。「助かる自分だと思う心」は、私の大事な大事な一縷の命綱です。どれだけ手を離せと言われようが、齧りついて離しません。
(カナダ人さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090327/1238110169#c1238159804

正直に自分の心を打ち出して頂き有り難うございました。
一縷の命綱にすがっておられると言うことですが、問題は「助かる自分だと思う」ということと、実際に「そう思っていたら助かる」ということは同じ事か、違うことかということです。
これは他でもない、ご自分のことですから自分のこととして考えてみて下さい。

その命綱を手放さないのならば、無理に手放さなくてもいいと思います。
ただし、カナダ人さんが手放さなくてもその命綱は無常の風によって、いつでも寸断されてしまうものなのです。無常の風と言っても、はるか未来のことではありません。だからこそ、蓮如上人は「速に」といわれています。

速にこの心を改悔懺悔して、当流真実の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、誠に宝の山に入りて、手をむなしくして帰らんに異ならんもの歟。(御文章3帖目8通・不廻向)

今すぐにこの心を改め懴悔して、真実信心を獲得し、今度の極楽往生定まる身にならなかったら、宝の山に入りて、手を空しくして帰るのと何も変わらないと言われています。
ここで言う宝の山とは、南無阿弥陀仏の大宝海のことです。南無阿弥陀仏の功徳の大宝海は、遙か先でもなく、ただ今帰入するものです。
命綱にすがっていても、無常が来ないわけではありません。

抑、人間界の老少不定の事を思うにつけても、いかなる病を受けてか死せんや。
かかる世の中の風情なれば、いかにも一日も片時も急ぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定して(御文章4帖目13通・秋去り春去り)

人間世界の老少不定のことを考えてみても、いつどんな病気になって死ぬか分からない。
こういう世の中だから、なんとかして一日でもすこしでも急いで信心決定して、今度の往生極楽を一定の身になってくださいと蓮如上人は言われています。

急がなければならないのですが、カナダ人さんコメントの中身についてお尋ねします。
「助かる自分だと思う心」が無くなったらどうなるのでしょうか?

お尋ねしますのでよろしくお願いいたします。