安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

ありのままに言うとはどういうことか?(カナダ人さんのコメントより)

カナダ人さんからコメントを頂きました。有り難うございました。

kさんが、「今救われてください」と言われて、「はい」というのには躊躇するといいますか、「まだもうしばらく待ってください」・・・という感じです。と、コメントされていますが、私もkさんと全く同じ心境でした。しかし、(中略)「今救われると思いなさい」ではありません。阿弥陀仏が「ただ今救う」と言われているから、今だということなのです。というコメントを読んで、何故かあんなに逃げていた心がなくなりました。しかし、救われたわけではありません。よく「自分のありのままの心を飾らず、恰好をつけず打ち出しなさい」と、教えてもらいますが、今までそういうことに全く慣れていない私には、かなり勇気のいることですし、具体的にどういうことを打ち出したらよいのかわかりません。理性的なことなのか?愚痴や感情的なものを吐き出すことをも含むのか?よくわかりません。(カナダ人さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090311/1236723319#c1237308392

いろいろと心境が変化しているのは、良いことです。
何を打ち出したらよいのかというお尋ねです。結論は「ありのままを打ち出す」ということです。蓮如上人は「物を言え」と言われています。

「物を言え、物を言え」と仰られ候。「物を言わぬ者は恐ろしき」と仰られ候。「信、不信ともにただ物を言え」と仰られ候。「物を申せば心底も聞こえ、また人にも直さるるなり。だた物を申せ」と仰せられ由候。(御一代記聞書87)

「物を言え、物を言え」「物を言わない人は恐ろしい」「信心決定している人も、そうでない人もただ物を言いなさい」「物を言えば心の底に思っていることもあらわれ、また間違っていれば人にも直してもらえるから、ただ物を言いなさい」と蓮如上人は言われました。
ここで「物を言え」の「物」とはなにかということが、カナダ人さんのお尋ねの内容になります。自分の心を打ち出すとは、あくまでも阿弥陀仏の救いに向かってのことで

もとより我が安心の趣いまだ決定せしむる分もなきあいだ、その不審をいたすべき所(御文章4帖目8通・八箇条)

と蓮如上人が言われているように、信心決定していない人でいえば、なぜ弥陀に救われていないのかという気持ちを出すということです。

「なぜ阿弥陀仏に救われていないのか?」ということについての不審も、理性的な人は理性的な疑問を出すでしょう。感情的な人は、感情的に不審を抱くでしょう。それは、一人一人異なるところなのです。
また「こういうことを言わねばならない」と枠を造った時点で「ありのまま」には言えなくなってしまいます。別段素直になれということではありません。ふっと思いついたこと、感じたこと、阿弥陀仏の救いに向かったときにでてくる心を出すと言うことなのです。
「こんなこと言ったら愚痴になるのではないか」
「こんなこと書いたら仏法を謗ることになるのではないか」
と、言う人を蓮如上人は「物を言わぬ者は恐ろしき」といわれているのです。

カナダ人さんが考えたこと、感じたことをそのまま書くということが大事なのです。
ただ今救うというのが阿弥陀仏の本願です。何か「よき仏法者になる」という本願ではありません。理性的にしろ、感情的にしろ、そのまま打ち出してみて下さい。

一つ質問しますと、「阿弥陀仏の救いはただ今救うという本願ですが、ただ今救われていないのはなぜだと思われますか?」
思ったことを書いてみて下さい。よろしくお願いいたします。