安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏に救われたら「死の恐怖」はどうなる(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

 友人の訃報を聞いた時、自分が死ぬのではないかと思ったとき、心が真っ暗になって、底知れぬ恐怖と、死にたくないという突き上げるような衝動と、底知れぬ不安を感じたことが、過去に何回かあります。その気持ちは一時的でしたが(普段は漠然と死ぬのは怖いと思っています)臨終に、ひとりであの恐怖に向かっていくと思うと、その恐怖を解決でしたい。いつ死んでも往生一定の身になれば、死の恐怖から救われると思いました。
死の恐怖をなくしたくて、本願を求めているのです。
まちがっているのでしょうか?
死にたくないという心は、信心決定しても変わらないといわれますが、全く何も変わらないのでしょうか?
癌の告知を受けた人が「目の前が真っ暗になって、大地が崩れるようなショックを受ける」気持は、信心決定しても同じでしょうか?
ショックは受けても、心が真っ暗になることはない(後生が明るいから)と思っていたのですが、この理解は間違っているのでしょうか?
死の恐怖はどうしたら解決できるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090310/1236640279#c1236682696

結論から言いますと、「死の恐怖」といっても、阿弥陀仏に救われる前と後では、変わるところと変わらないところがあると言うことです。

変わるところというのは、親鸞聖人が御遺言で言われているように

我が歳きわまりて、安養浄土に還帰すというとも、和歌の浦曲の片男浪の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。(御臨末の書)

この親鸞は、肉体の寿命が来たら、阿弥陀仏の極楽浄土へ行くけれど、海の波が寄せかけ寄せかけ帰るように、すぐ帰ってくるぞという自覚はあります。
「どこへ行くか分からない」というような死の恐怖は、真実信心を獲得すると「寄せかけ寄せかけ」の働きを阿弥陀仏から頂くのでなくなります。

変わらないところというのは、この世の者と別れていかなければならないということについてのいわゆる執着からくる心です。

久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこいしからず候こと、まことによくよく煩悩の興盛に候にこそ。(歎異抄9章)

歎異抄にでてくるように、長い長い過去から今日まで迷い続けたこの世界というのは古里のように捨てがたく、まだ生まれたことのない極楽浄土は行きたいと思う心がないのは、本当に煩悩のなせるわざなのです。弥陀の浄土に往けるのだから、何にもつらいことはないだろうとはならないのが、三世の諸仏も見捨てる救われがたい人間の姿なのです。
しかし、歎異抄はこのように続きます。

名残おしく思えども、娑婆の縁尽きて、ちからなくして終わるときに、かの土へは参るべきなり。(同上)

この迷いの世界が名残惜しいという気持ちは変わらないけれども、この娑婆の縁が尽きたら、阿弥陀仏の極楽浄土へ行くのだ、という自覚は常にあります。

癌の告知を受けた方が「大地が崩れるようなショックを受けた」といわれるのも、内容はいろいろとあるでしょうが、そのショックの中身でも、家族との別離などの悲しみは弥陀に救われても変わりません。ただ、弥陀の浄土へ往ける身になった人には、「力無くして終わるときに、かの土へは参るべき」という点では、全く変わってしまいます。

死の恐怖をなくしたくて、本願を求めているのです。
まちがっているのでしょうか?

というお尋ねですが、阿弥陀仏の極楽浄土に往生するのが目的です。そのための本願です。確かに、往生一定の身になれば、いわゆる「死の恐怖」のある部分は全くなくなります。それは結果的にそうなるのであって、目的はあくまで「往生一定」の身になることなのです。同じではないかと思われるかもしれませんが、違うのです。

死の恐怖はどうしたら解決できるのでしょうか?

ということですが、「死の恐怖」というものの定義によりますが、「死にたくない気持ち」はなくなりませんが、「往生一定の身」になります、どうすれば往生一定の身になるのかについては、蓮如上人はこのように言われています。

もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」とたのみ申して候。たのむ一念のとき、往生 一定・御たすけ治定とぞんじ(領解文)

もろもろの雑行・雑修・自力の心を振り捨てて、一心に阿弥陀仏にうちまかせる以外にありません。
自力の心を振り捨てた一念に、往生一定の身に救われるのです。ただ今本願に救われる時があります、目的は阿弥陀仏に救われ、往生一定の身になることです。