安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の仕事と私の仕事、区別をつける心を自力といいます(最後の学徒さんのコメント)

最後の学徒さんからコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)
この回り続ける心一つ、過去も、今も、これからも流転を重ねる姿と思わずにおれず、
呆れながらも、放ってはおれない気持ちです。
逃げてはならないとはいえ、逃げたくなり、逃げたくなりながら、逃げることは出来ない我が身の問題です。
本当に浄土真宗の教えは合点は易いが、通るのは難中の難であることが感じられます。
「自力を捨てて他力に帰すること」を自分の問題にしている人がいないから、
簡単に、「近道があると思っている」ぐらいに人を非難し、同調する者がいることも頷けます。
救いを自身の問題としてなければ、本当の真宗の極難信ということの、その片鱗すらも感じることはないだろうなと、人を恨めしく思います、善をしないとか、簡単に助かろうとかまったく思っていないのに、と。
それは他人事でした。どうでもいいことです。
(略)
自力で自力は切り落とせない、そう知らされるばかりですが、自力で自力を切り落とせると思っている心があります。
その心がなくなりません。
これが問題です。

質問させて頂きます。

【南無阿弥陀仏を受け取っていないから、そのような心が出るのです。
南無阿弥陀仏を阿弥陀仏を受け取ると、「如来のよきこころにて助かる」と言われています。】

これはどういうことか、教えて頂けないでしょうか。
(最後の学徒さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090308/1236466473#c1236533715

コメントの文面から求道に苦しまれている姿をお察しします。
安心問答(浄土真宗の信心について)の中の文章についてのお尋ねです。

信心といえる二字をば、『まことのこころ』と訓めるなり。『まことのこころ』というは、行者のわろき自力のこころにては助からず、如来の他力のよきこころにて助かるが故に、『まことのこころ』とは申すなり。(御文章1帖目15通・宗名・当流世間)

という御文章を引用して回答をいたしました。

南無阿弥陀仏を受け取っていないから、そのような心が出るのです。

南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から受け取ると、「如来のよきこころにて助かる」と言われています。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090308/1236466473:

ここで「そのような心」といったのは、「自分で信じることができれば助かると思う心」のことです。真実信心とは、阿弥陀仏から賜った信心のことですから、自分で信じた信心ではありません。これは最後の学徒さんが言われているとおりです。
蓮如上人が「行者のわろき自力のこころにては助からず」といわれているのは、私たちの自力では、自力の心が無くなるのではないということです。

では、どうすれば助かるのか?別の言葉で言えば、どうすれば自力の心が無くなるのか?ということです。
それに対して蓮如上人は「如来のよきこころにて助かる」と言われているのです。
ここで「如来のよきこころにて助かる」とは、「信心一つで助かる」ということです。阿弥陀仏から他力の信心を賜ると助かると言うことです。他力の信心とは、南無阿弥陀仏のことですから、南無阿弥陀仏(如来のよきこころ)を受け取ると、信心決定(まことのこころ)の身になり、助かるということです。

そこで、南無阿弥陀仏をどうやって阿弥陀仏から受け取るのかと言うことです。上記の御文章の続きに蓮如上人はこのように言われています。

されば『経』には『聞其名号・信心歓喜』と説けり。『其の名号を聞く』といえるは、南無阿弥陀仏の六字の名号を無名無実に聞くにあらず、善知識にあいてその教を受けて、この南無阿弥陀仏の名号を、南無とたのめば必ず阿弥陀仏の助けたまうという道理なり。これを『経』に『信心歓喜』と説かれたり。(御文章1帖目15通・宗名・当流世間)

大無量寿経には「其の名号を聞いて、信心歓喜す」と説かれている。「その名号を聞く」というのは、ただ南無阿弥陀仏をなんとはなしに聞くのではない、仏法を正しく説く人から教えを受けて、南無阿弥陀仏の名号を、南無と受け取れば必ず阿弥陀仏の助け給うという道理なのだ。救われた身のことを「信心歓喜」と説かれているのだ。

ここで「南無」とたのむというのは、南無阿弥陀仏の南無には、私たちには阿弥陀仏の本願をはねつける心、信じる心がないので、阿弥陀仏が南無阿弥陀仏に、阿弥陀仏を信ずる心を、「南無」の2文字にすでにおさめておられるのです。
その南無阿弥陀仏の、「南無」(信ずる心)を受け取って、阿弥陀仏(助ける働き)に打ちまかせることができるのです。
自力を捨てねばならないということくらいは、私でしなければならないという心が働きます。これも「行者のわろき心」であって、捨てねばならないものです。
一切は南無阿弥陀仏を成就するまでにに、阿弥陀仏がご苦労をされているものです。それに不審を持ち、勝手に心配し、「これくらいは自分でする部分」と領域を設ける心が自力の心なのです。「なんのようもなく」と御文章にたびたび蓮如上人が言われているのは、自力の心ではなくという意味です。
それを捨ててください。

回り続けるのは、あれやこれやと阿弥陀仏のお仕事に勝手に領域を設けているからです。
ただ今弥陀の本願に救われる時が必ずあります。