安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

逆謗と自力の関係について(最後の学徒さんのコメント)

前回のエントリーについて、最後の学徒さんより質問を頂きました。

【十劫の昔から、それを見抜いて本願を建てておられるのです。しかし、それは棄てものです。】

十劫の昔から、見抜かれているのは、本願を計らう私だということでしょうか。
弥陀は、私を唯除逆謗と見抜かれ、唯除逆謗は、そのままで、必ず助けると誓われていると聞かせて頂いています。
その本願を疑う者(阿弥陀仏の仕事を横取りする者)であることも弥陀はお見抜きであるが、その疑いは棄てもの、である、という事だと思いますが、
信前信後変わらぬ唯除逆謗いうことと、棄てものである自力の心は、どういう関係にあるのでしょうか。
(最後の学徒さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090303/1236038042#c1236099738

阿弥陀仏が見抜かれているのは、本願を計らう私だと言うことです。
そこで、コメントで質問を頂いた、「信前信後変わらぬ唯除逆謗ということと、棄てものである自力の心」の関係が問題になってきますので、それについて回答をいたします。

結論から言いますと、逆謗だから本願をはねつけ、疑い、計らう私だということです。

阿弥陀仏の本願に、「唯除五逆誹謗正法」と誓われ、私たちの本当の姿を、五逆罪の者、謗法罪の者と見抜いた上で本願を建てられています。これは、阿弥陀仏に救われる前(信前)も、阿弥陀仏に救われた後(信後)も変わりません。
では、自力の心とはなにかというと、

身・口・意の乱心を繕い、めでとうしなして浄土へ往生せんと思うを自力と申すなり。(末灯鈔)

体や口や心を、ああしたら、こうしたら弥陀の浄土へ生まれられるのではないかと思うのを自力の心というのだと、親鸞聖人は言われています。
この心はゼロになるのですから、阿弥陀仏に救われた後にはない心です。

では、この二つはどういう関係なのかと言いますと、阿弥陀仏の本願を信じる心がない私というのが本当の私の姿です。ですから、「誹謗正法」と本願に誓われているように、本願を誹謗するのが私の本当の姿です。だからこそ、本願に向かうと、「ただ今救う」と聞かされていても、「○○しなければ」「まだ○○だから」「いまは無理だろう」という心が出てくるのです。「逆謗をそのまま救う」と聞いても「ああなったら」「こうなったら」と計らう心が出てきます。それが自力の心です。

たとえて言うなら、逆謗という本当の姿に対して、太陽の光に向かったときにできる影のようなものが自力の心です。もちろんたとえですから、それがすべてをあらわすわけではないことは、承知の上で書いています。
光が当たれば当然影ができるものです、医者が手術で使う無影灯というのは影ができません(もちろん正確にはできるのですが、できないという仮定で)が、影がないからといって本体の姿が消えるわけではありません。

逆謗だから、本願に向かったときに自力の心がでてくるのです。本願に救われたときに自力の心が一念でゼロになったからといって、逆謗がなにか変わったり、無くなったりすることはありません。それは信前信後かわらないのです。

最後の学徒さんは、目的はよく分かっておられるとおもいます。あとは無常との競争です。早く弥陀の本願に救われてください。阿弥陀仏は現在ただ今はたらいておられます。

これは例えですから、合わないところはあります。ただ、今回は、逆謗と自力の関係について分かっていただこうと思い書きました。このブログをご覧の方でご意見のある方は、いつでもコメント、メールで出して下さって結構です。