安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

ただ今の救いを求める人に菩提心はおこされます(かずやさんのコメントより)

かずやさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

このブログに、
>「老少不定と聞く」とは、ただ今の弥陀の救いにあおうと菩提心が起こされた人が、このまま信心決定できないまま無常を迎えたら大変だと驚いた人が、急ぎいかなる功徳_善根をもするのだといわれています。

と書かれていますが、僕にはここに出てくる菩提心ということばがよくわかりません。どなたか教えていただけないでしょうか?
(かずやさんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090210/1234227456#c1234286060

コメントの文中のエントリーは、以下のものです。
安心問答(浄土真宗の信心について)
メールでお答えしましたが、コメント欄にあったものなので、エントリーと加筆してお答えします。

この菩提心というのは、「現在ただ今弥陀に救われたいという強い心」をいいます。
よくいわれる「後生が苦になって」とか「自力の心を振り捨てようと苦しむ」という状態を指して書きました。

どうしたら信心決定できるだろう、どうすれば阿弥陀仏の本願にすくい取られるのだろうかという心がおきたときに、
「それには、まず○○をしよう」という、心とは違うものなのです。
「まず○○しよう」というと、「まず○○してから」でないと救われないというのが前提の心だからです。ただ今救われると言うことがないという前提で救いを求めているからです。

抑、その信心をとらんずるには、更に智慧もいらず、才学もいらず、富貴も貧窮もいらず、善人も悪人もいらず、男子も女人もいらず、ただもろもろの雑行を捨てて正行に帰するをもって本意とす。(御文章2帖目7通・五戒・易往)

「まず智恵を身につけて」でもなく「まず才能を学問を」でもなく、「まずお金持ちになってでも、貧乏になって」でもなく「まず善人になってでもなく、悪人になって」でもなく、ただもろもろの雑行を捨てて、阿弥陀仏に救われることをもって、阿弥陀仏の本当の御心とするのだと蓮如上人は言われています。

現在ただ今救うには、何か足りないものを足していると時間がかかります。一念の救いを本願に建てることはできなくなってしまいます。

自力の心を捨てよと聞くと、まず自力を知らなければと思ったりするのも、「まず自力を知って」からでは、ただ今の救いにはなりません。
「雑行自力の心を知って助かる」のではありません、「ただもろもろの雑行(自力の心)を捨てて」助かるのです。

その自力の心が見えた人に、この自力の心が廃らないと大変だ。現在ただ今の救いにあわねばならないのに、無常が迫ってくるというところに、「何とかしなければ」、「急がなければ」という菩提心がおきるのです。

「大宇宙が火の海になってもそこを突破してでも」という心がおきるのです。

たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなうなり(浄土和讃)

もちろん、自力の心を捨てると言うことは、難しいことですが、必ず弥陀に救われるときがあります。仏の御名を聞いて、不退転の身になるのは、現在ただ今のことです。