安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

煩悩即菩提の、喜びとは何を喜ぶのか?(かぺたさんのコメントより)

かぺたさんからいただいたコメントについて、お答えします。
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081127/1227777295#c1227797181

後半お答頂いた内容ですが非常に難しく理解しきれませんが、『この世の苦しみが獲信した
からといって喜びに転じ変わるというようなことはなく、あくまで相対の幸福は多いに
越したことはないが、それがあろうがなかろうが、往生一定であるということはまったく
変わらないのでそのことによって今現在の心が明るい。』←すみません、なにか違うような
気もしますがこれが今の私の理解です。

難しかったとのことで、申し訳ございませんでした。

この世の苦しみ、楽しみによって、往生一定が、一定でなくなる、妨げられるということはありません。
この世の苦しみは、苦しみのまま存在します、それが喜びに転ずるというのは、言葉で説明すると難しいですが、「苦しみは確かにある」そのまま「喜びもある」という状態なのです。

「罪障功徳の体となる
 こおりとみずのごとくにて
 こおりおおきにみずおおし
 さわりおおきに徳おおし」(親鸞聖人)

 喜びといっても、煩悩が喜ぶ喜び(お金が儲かったなど)とは喜び(菩提)なので、たとえで親鸞聖人いわれていますが、「俺の(力で)すくわれたぞぉぉ」と雄叫びをあげるような、「努力が実った!」という喜びとは違うということです。

・救われたら煩悩即菩提で苦しみは全て喜びに全て転じ変わるというのは本当でしょうか?
 (例えば貧乏な事を喜べるというような事があるのでしょうか)

このように質問をいただいた「全て喜び」というのは、「煩悩満たされた」喜びではないということなのです。
では、「うれしくないのか?」という質問があるかもしれませんが、「うれしい」です。
「獲信見敬大慶喜」(正信偈)
と親鸞聖人いわれる通りで、大きな喜びはあります。

この世のことで例えたら「美味しい」といっても、いろいろな美味しさがあります。
「美味しい肉」といった「美味しい」と「美味しい水」といった「美味しい」と、「空気がおいしい」といった「美味しい」は、文字で表せば全部「美味しい」ですが、「味」は全部違うでしょう。

「喜び」も「言葉」ですから、「言葉」は同じでも、想像するものが違うのです。
煩悩即菩提ときいて、「すごく美味しい肉」のような「味」を想像して、「そういう味があるのか」と思っていても、その「美味しい」は、「美味しい水」や「美味しい空気」のような美味しさ(味)なのだということです。(これはあくまでたとえです、質が違うといいたいためのたとえです)

他力の信心は、「私の努力の結晶」ではないのです。「阿弥陀仏のご苦労を賜ったもの」なのです。
だからこそ、歎異鈔に

「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずればひとえに親鸞一人がためなり」(歎異鈔)

といわれているのです。

言葉をかえれば、「すべて喜び」という「喜び」は、阿弥陀仏のご苦労を喜ぶ、ご恩を喜ぶ喜びであり、恩徳讃の心から出てくる喜びです。
他力の信心獲得すれば、他力の信心と一体に成るので、その信心を喜ぶということは、私すべてが喜びに転ずる世界なのです。

貧乏を喜ぶということが、表現上あっても、それは「貧乏なこと=不幸」という価値観が、「貧乏=幸せ」と価値観が転換するということではありません。
「貧乏=不幸(といってよいものではありませんが、生活自体が苦しいという現実はあると思います)」は、かわりませんが、他力の信心獲得すれば、その信心を喜ばずにおれなくなりませんから、結果として、喜ぶすがたになります。
しかし、それは、貧乏という現実がかわったのではありません。
あえていえば、喜ぶものがら(南無阿弥陀仏)と一体に成るので、喜ぶものがそのままあるという世界に生かされるということなのです。

こういうことを書くと、真実信心とは、なにか遠い遠い世界の、遥か高嶺の花のように思われるかもしれません。「そんな心になれない」とか「ここひとつになれない」という心は、真実信心のすばらしさを聞けば、わかられるほど強くなると思います。
しかし、それは計らいであって、自分で遠くにおいているのです。

「自分には〜」と、仮に自分に価値がなかったとしても、それが何だというのでしょうか。阿弥陀仏の本願は、そんなものを相手に建てられたのではなかったのでしょうか。

阿弥陀仏は常にそばまできて、ただいま救おうと、現在働いておられます。
あとは、聞くものの気持ち一つなのです。

カペタさんのコメントに返事がのびのびになり、申し訳ございませんでした。
ご不明な点ございましたら、またコメントをお願いいたします。