安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

教えに従う=型にはまるではありません(無力さん、orimaさんのコメントより)

無力さんのコメントに対するお答えの続きです。
全部の回答に時間がかかり申し訳ございません。
全文こちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081120/1227179314#c1227800960

全くおっしゃる通りで、今、会場に出かけていくのは、
「本当は嫌だけど、聞かないと、求道が進んでいかないから…」ということなんですが、こういう心境のまま求めてもダメだろうな、というようにも思い、しかし、「せずにおれない」という心はどうも湧いてこず、やはり「まずは求めなければ」その心も湧いてこないのではないか、とも思うのですが

まず、これについては、orimaさんも同じ事を言われています。

「本当は嫌だけど、聞かないと、求道が進んでいかないからせずにおれないという自分の思い」が自分の心に近いような気持ちです。(中略)「求めずにおれない」というのとは違う気持ちです。(orimaさんのコメント

実際に多くの人が、感じる心だと思います。とてもよく分かります。というか、「本当は嫌だけど〜」ということに共感できる人は多いと思います。

「聞かずにおれなくならねばならない」という心が、自分自身を苦しめているのです。向かうべきところが、違うというのはこういうところをいいます。
「聞かずにおれなくならない」という言葉から想像するのは、修行中のお釈迦様や、親鸞聖人のような姿でしょうか。
「意志の弱い私」が「聞かずにおれないスゴイ人」になるのではないのです。

加えて「求道が進む」という言葉は、説法の場で、参詣された方にいうのはまだいいと思いますが、自分で自分の言動に対して「こうしないと求道が進まない」というのは、特定のパターンを想定した言い方になってしまいますので、自分で自分の求道をある一定の「型」にはめようとすることになってしまいます。

「教えに従う」というのは、「型にはまる」ということではないのです。
「型にはまる」のが「教えに従う」ということになりますと、教えを聞いて、求道が進んだ人は、ある金型から作られた「型」にはまった同じ人間ばかりということになってしまいます。
それはただの思想改造です。文化大革命と何もかわりません。
また、それが「教えをきく」「教えに従う」というのであれば、
「よくきくこともかたければ」と親鸞聖人は言われませんし、お釈迦様も「仏法聞き難し」とはいわれません。
「型にはまる」のなら、簡単です。考えなければいいのですから。
「よくきくこともかたければ」にはなりません。

「本当は嫌だけれど」という心の根っこにあるのは、「型」にとらわれ、「型」にはまらなければならないという考えです。
ここでいう「型」というのは、その人の言動や考え方をさしていいますから、「自己をある決まった型にはめる」ということに対する拒絶感です。

「教えを聞く」「教えに従う」というのはそう言うことではありません。
お釈迦様で言えば「一向専念無量寿仏」しなさい、ということです。親鸞聖人の言葉で言えば「雑行を棄てて、本願に帰す」です。蓮如上人で言えば「信心決定あれかし」です。

「ただ今信心決定の身になりなさい」という教えに従うのであって、あなたの「思い」や「趣味」や「行動」を「型にはめよ」とは言われていません。

目的は、信心決定なのです。

ここ一つ、という心にならなければその煩悩には打ち克てないと、少しアキラメが入り、でも、ここ一つ、という心になるにはやっぱり「まず求めなければ」いけないのでは、という気がしてきますが、それなら結局元の木阿弥ではないかということになり、その辺りで疲れてあきらめてしまうのです。

何が問題なんでしょうか?

これも同様に、「煩悩に打ち勝たねば、ここ一つという気持ちは起きない」という型にはまっているからです。
煩悩は、信前も、ここ一つとなっても、信後もまったくかわりません。楽しい方がいいのは、信前信後も変わらないのです。ここ一つとなっても楽したいのは変わりません。ただ、聞かずにおれない心になるだけなのです。

「型にはめよう」というのが、よくいう「安楽椅子」です。
「こうして救われる」というモデルケースを想定して、そこに自分をはめようとしているのです。それは、「こうしたら阿弥陀仏が認めてくれて、信心を与えてくださる」という自力回向の心から来ていますので捨てねばなりません。
その心がすてものです。

学校のテストではありません。答えは、出題者が知っていて、それに合わせた答えが言えたら正解というようなものでは、ないのです。
「なぜここ一つにならないのか?」その答えは、無力さん、orimaさん自身が持っているのです。
答えを外に求める間は、新しい型、新しい型へとうつっていく繰り返しです。

ただ今救うという本願に、ただ今救われてください。