安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聞法と心と体の関係について(無力さんのコメントより)

無力さんより、コメントを頂きました。有り難うございました。
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081120/1227179314#c1227785586

いくつかご質問を頂いておりますが、最初の部分について回答を致します。

 いや、本当に聞きたいところは、
 「まずは聞法しなければ助からない」
 というのがどうやら間違いだということは何となく分かるのですが、
 これが、文字通り、間違い無いならば、
 「毎週日曜に聞法会場に足を運ぶ必要は無い」
 ということになると思うのですが、これは正しいでしょうか?

結論から言いますと、正しくありません。

「まずは聞法しなければ助からない」というのは、「心」が間違いだと言ったのであって、「聞法会場に足を運ぶ」という「行動」が間違いだと言ったのではありません。

「まずは聞法しなければ助からないという心」がなぜ間違いかというと、阿弥陀仏の救いに、時間的な幅を勝手に作り出し(本願は平生一念の救い)、○○しなければ助からないという条件付けをしているからです。
弥陀の救いには条件はありません。条件という言葉の意味に含まれているのは、「○○できたら助けてもらえる」
「○○したら助かる」
という、自分の行為の結果として(または報酬として)弥陀の救いがあるという考えです。(自力回向ともいいます)
自分の行為(自力)の延長(結果)にあるのは、自力であって他力ではありません。弥陀の本願は、そのように、何かを私たちがしなかったら、助けることができないという本願ではありません。

如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて
大悲心をば成就せり(正像末和讃)

親鸞聖人が言われているように、阿弥陀仏が本願を建てられたのは、○○したら助かるというような善根の出来ない苦悩の人々に対して、廻向(与える)するためにたてられたものなのです。それ故に、他力廻向の信心ともいわれ。蓮如上人は不廻向とも言われているのです。

凡夫の方より為さぬ廻向なるが故に、是をもって如来の廻向をば、行者の方よりは「不廻向」とは申すなり。(御文章3帖目8通 不廻向)

ここまで書いてきたことは、「阿弥陀仏の本願(法)」についての話しであって、法の上から、「まず聴聞しなければならない(助からない)という心は間違い」と言ったのです。

「法話会場に足を運ぶ」というのは、私たちのことです。私たちの行いのことです。聴聞しなければ「まずは聴聞しなければならないという心が間違い」ということも分かりません。
法に向うというのは、一番分かりやすい行動は、仏法を聞くということです。
「間違った心」が「間違った心」と知らされるのは、真剣に弥陀の救いに向わねばなりません。それには「まことに宿善まかせとはいいながら」仏法を聞くのが一番の近道なのです。

ほかのコメントについても、とても大事な内容ばかりなので、後日回答致します。

orimaさん、カペタさんコメントありがとうございました。また、エントリーを書きますので宜しくお願いします。