安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

仏法を聞くと言うことと、この世の苦しみ・楽しみ(カペタさんのコメントより)

前回の続きです

かぺたさんから以前頂いた質問で、まだ答えていない部分について回答します。
質問のコメント全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081121/1227269318#c1227275653

・救われたのに『どなたに救われたかわからないがとにかく救われたことははっきりしている』
 などということがあるのでしょうか?

「どなたに救われたかわからない」という言葉だけとると、そういえる場合もあるでしょう。
ここで大事なのは「わからない」という意味です。「目で見たり、耳で聞いたり、さわったりしたようにはわからない」ということなら意味は通ります。
阿弥陀仏に救われたときに、目の前に金色輝く阿弥陀仏が現れて・・・」というような、ことなら、「どなたに救われたかわからない」ということは絶対に言えません。
しかし、そのようなものが見えるなら、それは、よく聞く神秘体験となにも変わりません。私が以前あった人の中には「目の前に弘法大師があらわれて・・・」という体験をした人もあります。

弥陀に救われる体験とは、「体験」はありますが、「明確にすべてを言葉に表現すること」はできません。できないから「不可称・不可説・不可思議の信楽」と親鸞聖人は言われています。

次に「とにかく救われたことははっきりしている」というのは、言葉だけで言えば、どうとでもとれます。

大事なのは救いの内容です。
「こころがぱぁっと明るくなりました」というのは、感情です。キリスト教の奇跡体験者にも多くあります。「そういう体験をした=救われた」と浄土真宗ではいいません。

あくまでも自力の心が廃った体験、一心に弥陀に帰命した体験を、浄土真宗で言う「弥陀に救われた体験」というのです。

十方衆生(すべてのひと)をただ今救うという弥陀の本願でありますが、捨てねば助からぬ自力の心というのは、弥陀の本願(法)に向かっての心ですから、法を抜いて、自力の心が廃ると言うことはありません。

・救われたら煩悩即菩提で苦しみは全て喜びに全て転じ変わるというのは本当でしょうか?
 (例えば貧乏な事を喜べるというような事があるのでしょうか)

煩悩即菩提は、本当ですが、「苦しみは全て喜びに全て転じ変わる」というのは「苦しみがゼロになって、あとは喜びだけになる」という意味ではありません。

煩悩は、信前信後を通じて、減りもしなければ、増えもしません。
日頃「苦しみ」と感じているのは、煩悩の苦しみです。貧乏が辛いというのも、煩悩です。
じゃあ、弥陀に救われたら、貧乏なことを喜べることになるのかという譬えで言いますと、貧乏は辛いです。煩悩が変わらないということは、その苦しみも変わりません。
「貧乏だからといっても、浄土往生のさわりにはならない」と転じるということです。

弥陀に救われて、何が変わるのかと言うことを「無碍の一道」と親鸞聖人は言われましたが、あくまで「浄土往生のさわりがない世界」であって、「この世のさわり(苦しみ)がない世界」ではないのです。

浄土往生のさわりがなぜ無いのかというと、それは真実信心を獲得しているからです。
信心決定した世界とは、浄土往生のさわりがない世界です。阿弥陀仏は現在ただ今、浄土往生のさわりが無い身に救ってみせる、死ねば弥陀の浄土に生まれさせるという本願を建てておられます。

その本願を建てられた御心からすると、この世の苦しみの解決は、副産物なのです。
この世の苦しみを解決するために仏法を聞くのではありません。
この世を楽しく過ごすために仏法を聞くのではありません。

そのように思う人は、この世の楽しみも味わうことはできません。
なぜなら、この世の楽しみを獲る(目的)には、後生の苦しみを解決(手段)しなければならないからです。この様に目的と手段が、前後逆になると、後生の苦しみの解決をしない限り、この世に楽しみなどあり得ないというような発想になってしまいます。
だから、この世の楽しみについて、敵愾心や罪悪感を感じる人もあります。

この世の楽しみは、楽しみとして確かに存在するのです。人間ですから、それを楽しくないと言ってしまったらそれはロボットか石になってしまいます。

きれいな風景をみて、きれいだなぁと思う心があるでしょう。楽しい会話をして、楽しいと思う心もあるでしょう。美味しい食事を頂いて、美味しいと思う心もあるでしょう。そういう感性は、人間として生きていく上で大事なことです。

ただ、それを「きれいだ」「楽しい」「美味しい」と感じることと、弥陀の救いは全く関係ないのです。関係ないですし、それが目的ではありません。

あくまでも目的は、後生の苦しみの解決(浄土往生)が目的であって、この世の楽しみを得るというのは、その手段であり、解決をしたあとの副次的にやってくるものなのです。

この世の楽しみが手段と言ったのは、体が健康でなければ仏法はなかなか聞き抜くことはできません。
いつもいらいらしていては、自分の心になかなか目が向かないでしょう。
健全な心で、体にいいものや美味しいものを食べ、人間関係のストレスもないということは、仏法を求める上では決してマイナスにはなりません。

反対に、心が暗く、食事もろくにとらず、いろんなことで思い悩んでいては、なかなか法は聞けません。
弥陀の救いとは関係ないと書きましたが、関係ないならこの世のことでストレスを抱えない方がいいのは当然です。

求道そのものは、以前のエントリーにも書きましたが、一歩本当の求道がはじまれば、孤独でもあり苦しい道に違いありません。
だからといって、日常生活まで苦しみのどん底にならねば聞けない法だと思うのは聞き間違いです。またそうしようというのは、山で修行をする仏教です。

当流親鸞聖人の一義は、強ちに出家発心の形を本とせず、捨家棄欲の姿を標せず、ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむる時は、さらに男女・老少を簡ばざるものなり。(御文章1帖目2通 出家発心)

蓮如上人も言われているとおりです。親鸞聖人の教えは、出家するような形をあらわさない。家を捨て、欲を捨てたような姿をあらわさない、ただ他力の信心決定するときには、そういう男女だとか年令とか言う形は関係ないのですから。
欲を捨てねばならないとか、そういう形にこだわるのは、それが弥陀の救いと関係あると思うからです。

もう少し分解して書きますと、
現在の苦しみを解決(目的)するには、後生の苦を解決(手段)しなければならない。
その後生の苦しみを解決するまでは、この世は苦しみの連続でしかないから、それに耐えていくのが聞法だ、求道だ。という考えです。
そうなると「出家発心の形」が本になり。「捨家棄欲の姿」を標するようになります。

目的と手段が逆になっています。目的が間違ったら、本当に手に入れたいものが、手に入らなくなります。

あくまでも目的は、現在ただ今弥陀に救われ、信心決定の身になることなのです。
この世楽しむことではありません。また、真剣に聞くことが目的でもないのです。それは手段であって目的ではありません。

「「聴聞、心に入れて申さん」と、思う人はあり、「信をとらんずる」と、思う人なし。されば、「極楽はたのしむ」と、聞きて、「参らん」と、願いのぞむ人は、仏にならず。弥陀をたのむ人は、仏になる」(御一代記聞書 123)

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