安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本当にたすかったのだろうか」という不審について(カペタさんのコメントより)

カペタさんへ
コメント有り難うございました。
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081122/1227356074#c1227366958


前々回のエントリーハッキリするとは、なにがどうはっきりするのか?(かぺたさんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について)についての質問です。

??????
>信後でも「本当に助かったのだろうか」ということは、
>自覚としてある人もあるだろうと思われます。

>ただこれも、言葉の上では、土蔵秘事の人が言う
>「本当にたすかったのだろうか」とは、言葉は同じ
>でも全く意味が違うのです。そこは誤解のないよう
>にしていただきたいと思います。

申し訳ないですがこの部分よくわかりません。
もう少しご説明いただけないでしょうか?

回答いたします。

かぺたさんからは、以前の質問について答えていない部分があります、それについては、このあとお答えします。

これについて前回、歎異抄9章のことを一部引用しました。
信後にある本当に助かったのだろうか。というのは、自力の心はまったくないという前提で、「救われたのにこんな状態(有様)でいいのだろうか」という気持ちです。
これは細かく心を分解して言った言い方ですから、言葉だけを口に出せば
「本当に(こんな有様で)助かった(といっていい)のだろうか」というところです。

土蔵秘事の人が言う「本当に助かったのだろうか」は、「本当に助かっていません」から、この疑念は、まったく「不審」と思うものがらが違うのです。

「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと、また急ぎ浄土へ参りたき心の候わぬは、いかにと候べきことにて候やらん」と申しいれて候いしかば、「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり」(歎異抄第9章)

親鸞聖人が「この不審」といわれたものと、未信の人が「これで助かったのだろうか」という「不審」は、意味が違います。

親鸞聖人が「この不審」といわれた「不審」は、煩悩によって、喜んでいいはずのことを喜ばない自分自身の姿から、「もっと喜べるはずなのに喜ばないとは、どういうことか?」(本当に助かったのか)という不審です。
それに対し、土蔵秘事の人が抱く「これで助かったのだろうか」という不審は、自力も、煩悩もわからず、とにかく助かったという自覚も全くないので、周りが助かったと言うけれどこれで助かったのだろうかという不審です。

自分自身の本当の姿を知らされて言われた、親鸞聖人の不審と
他人の言葉に対して、「本当だろうか?」という不審はまったく違います。

天に踊り地に踊る大慶喜が起きるというのは、本当なのですが、この慶喜心も、阿弥陀仏から頂く心であって、私の煩悩が天に踊り地に踊るような喜ぶ心が起きるのではないのです。
「獲信見敬大慶喜」(正信偈)といわれる「大慶喜」は、「宝くじあたった喜び(煩悩)」の、数百倍とかいう喜びとは、喜ぶものがらが違うのです。
「往生のさわりがない」喜びであって、煩悩が喜ぶ喜びとは違います。

救われても煩悩は変わりませんし、煩悩が喜ぶようなものが真実信心でもありませんから、救われても煩悩が喜ぶような喜びが天から降ってくるのではないのです。
そういう意味から、「本当は喜んでいいはずなのに喜べないとは、本当に助かったのだろうか」と、思う人があっても不思議ではありません。

もちろんそんな心の裏には、そんなものが救われたという喜びも同時にあるのですから、言葉は同じでも土蔵秘事や、未信の人がいうこととは違うのです。

時間の都合で走り書きになりましたが、また明日続きを書きます。