安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

ハッキリするとは、なにがどうはっきりするのか?(かぺたさんのコメントより)

かぺたさんからコメントを頂きました。有り難うございました。
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081121/1227269318#c1227275653
質問を頂いております。

半年ほど前からずっと疑問に思っていた事ですが、信を獲たかどうかの判定基準は二種深心に限られると言われますが
・本当に2つの事が一念同時にはっきりと知らされるのでしょうか。

一念同時にハッキリ知らされるのは、本当です。
機法二種一具の深信ですから。

・はっきりと知らされるとは本当にツユチリの疑いもなく知らされるのでしょうか?
・信後でも『本当に助かったのだろうか』とチラッとでも思うことはないのでしょうか?

ここは誤解の多いところなので、お答えします。「はっきり」という言葉の持つ意味合いが、信前と信後では違うと言うことです。
ハッキリするのだというのは、言葉上確かに間違いないことなのですが、信前に「こういうようにハッキリするのだろう」と思うような、ハッキリの仕方ではないと言うことです。
かぺたさんが、はっきりすると聞くとどのようなものを想像されるでしょうか?
「そのままじゃーっと声なき声が全身をつらぬくようなもの」と思われるでしょうか?
「なにかカミナリに打たれたように、ピカーっと目の前が明るく開ける」ようなものでしょうか?
「火にさわったような」ハッキリでしょうか。
「火にさわったように」はっきりわかる ということと、「火にさわったようなはっきりの仕方である」というのは、言葉は似ていますが全く異なります。
「火にさわったようなハッキリの仕方」ですと、いわゆる痛覚ですね。触覚です。そういうような、なにか五感でわかるような分かり方ではないということです。
つゆちりも無くなる疑心は、疑情であり、自力の心ですから、それは全くなくなってしまいます。
信後でも「本当に助かったのだろうか」ということは、自覚としてある人もあるだろうと思われます。
ただこれも、言葉の上では、土蔵秘事の人が言う「本当にたすかったのだろうか」とは、言葉は同じでも全く意味が違うのです。そこは誤解のないようにしていただきたいと思います。
有名な歎異抄9章の唯円と親鸞聖人の問答は、その象徴的な話の一つです。
「弥陀に救われて、念仏称える身になっても、踊躍歓喜の心がおきないのはどういうわけでしょうか?」という質問は、短い言葉で言いますと「これでいいのかしら?」ということです。信心決定した人がそんなことを言うのかしら?とおもっていると、親鸞聖人が「親鸞もそうなんだ」と答えられています。
時間の関係で、このことはまた日を改めてかきます。
今日は、蓮如上人のお言葉を紹介します。

他力の信心ということをば、今既に獲たり。これしかしながら、弥陀如来の御方より、授けましましたる信心とは、やがてあらわに知られたり。(御文章2帖目13通 御袖)

「他力の信心を今既に獲たぞ」といわれたあとに、「弥陀如来の御方より、授けましましたる信心とは、やがてあらわに知られたり」と書かれています。
「今既に獲た」というのが、本当なら、「やがてあらわに知られたり」となぜ蓮如上人は書かれているのでしょうか。
これは、一念で救われたときに、何が分かるのか、何が知らされるのかと言うことと深い関係があります。
救われた一念に、弥陀如来の五劫思惟のご苦労も、知らされ、阿弥陀仏の本願36字や、教行信証に書かれたことが、一文不知の尼入道でも、巨大なデータが脳内にダウンロードされるように、一度に全部知らされるというものではないのです。
「自力が廃った」という自覚は確実にあります。しかし、これも他力によってなさしめられた体験なので、自分で「どうだ、捨てたぞ!」と誇るようなものでもありません。すべて阿弥陀仏のお力なのですから。
救われた本当の一念、時尅の一念は、一念であるがゆえに、凡夫の意識で「そのとき」と知覚できる速さではないからです。知覚できたら一念ではないのです。夢が覚めた時をいつとはいえませんが、夢が覚めたと言うことは夢が覚めたときにわかります。「あのときは夢を見ていたのか」というのは、夢が覚めれば「やがてあらわに知られたり」であります。
これもたとえですから、全くそのままという訳ではありません。
土蔵秘事のような「これで助かったのだろうか」は、そもそも自力の心で苦しんだことのない人ですから、まったく話が違います。
本当に自力の心がどうしたら廃るかと求道に苦しんでいる人は、人の言葉や、感情の揺さぶりでは全く満足するということはありません。
人の言葉や、自分の感情の動静とまったく関係ない自力の心が、苦しみの根元と知らされているからです。

それ以外の、以下の質問については、時間の都合で後日お答えいたします。

・救われたのに『どなたに救われたかわからないがとにかく救われたことははっきりしている』
 などということがあるのでしょうか?
・救われたら煩悩即菩提で苦しみは全て喜びに全て転じ変わるというのは本当でしょうか?

今日は時間の都合で、申し訳ございませんが、全部の質問にお答えできませんでした。
後日必ずお答えしますので、宜しくお願いいたします。