安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「ここ一つ聞き抜く」の「ここ」とは?(kaiinさんのコメントより)

kaiinさん、コメント有り難うございました。
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081110/1226309568#c1226315588

最初に、名前を間違えて書いていたことをお詫びします。前回のエントリーの分から修正を致しました。申し訳ございませんでした。

お尋ねの件についてお答えします。

 今私がどんな気持ちで聞いているかといいますと元福徳会員さんとのやりとりを読ませて頂き知らされたのですが自分は19願の入り口にさえきていないなと思います。
ただそうしたところにいる自分ではありますが、それでも今救われる教えを今聞き開くぞという思いで聞法していけば良いのでしょうか。
またここ一つ聞くという「ここ」とは一体どういうことなのかもお教え頂きたくよろしくお願いいたします。

「今救われる教えを今聞き開くぞという思いで聞法」することはとても大事です。

まず19願の入り口さえということについてですが、19願といっても口で言うのは簡単ですが、その軌道に乗ると言うことは本当に有り難いことです。
有り難いことなのですが、19願の願力に引っ張られてからは早いのです。

こう聞くと、その19願というのは、どれほど大変な道のりなのだろうかと思われるかも知れませんが、向かうべき方角は、kaiinさんが書かれているとおり「今救われる教え」であり、18願なのです。

そのように書くと、18願だけでよいというのか、と思われる方もあると思います。ここで聞き間違ってはいけません。阿弥陀仏が、三願(18願、19願、20願)を建てられた御心からいっても、三願で救われるのが真実の信心です。
ですが、最初に19願に向かっていけば、19願の願力によって菩提心が起きて、善をせずにおれなくなり、そうなった人が、20願に向かって、20願の願力によって念仏称えずにおれなくなってきて、最後にようやく18願に向かう心が起きて、18願の願力によって救われる。と言うことではないのです。

阿弥陀仏が本願を建てられた目的は、18願であり、19願、20願は、その18願の世界に導くための方便(手段)として建てられた願です。

仏法を聞き、弥陀の救いを求める人が、目的とするのはあくまでも18願(平生から未来永遠救われる)ことであって、19願(真剣に修善を行い臨終に救われる)ではないのです。

現在ただ今の救い(18願)に向かって、真剣に聞法する人に、19願の願力、20願の願力がかかってくるのであって、19願に向かう人が、18願を目指すようになるのではありません。

目的と手段を逆にしてはならないのです。と、いっても、その目的と手段が常に反対になってしまうから、仏法聞き難しとも言われるのです。

そこで、今聞き開くぞと真剣になったら、「では、どうやったら?」という疑問が起きてきます。
「何だかわからないうちに、阿弥陀仏の呼び声が「そのままー」と聞こえていつのまにやら助かる」というものではないのです。

「無常と罪悪に苦しんでいるときに、何か驚天動地の体験をして助かる」といったものでもないのです。
上記にあげたのは、このように思って聞いている人が多いので例としてあげました。

では、どうすれば助かるのか「ここ一つ聞き抜く」という気持ちと言いましたが、「ここ」というのが何か分からないと、火中突破の聞法と言っても、目的がはっきりしなければ、強い気持ちも空回りしてしまいます。

逆に言いますと、どれだけ強い気持ちで、「今日は聞き抜くぞ」と思って、法話会場に足を運び、話を聞いていてもその気持ちが続かないのは、「何を聞くのか」が、自分自身ハッキリしないからです。

あそこに向かって走るぞ、と目的がはっきりしていてこそ、そこに向かって全力で走ることもできるのです。あの島まで泳ごうと、目的が定まってこそ、全力で泳ぐこともできるのです。

親鸞聖人が、法然上人にむかって「今日は、ここ一つ聞かせてください」と頭を下げた、「ここ」とは何でしょうか?
それは、弥陀の救いの妨げになっているものであり、自力の心なのです。

真剣に弥陀の救いを求めている人には、「これが自分を迷わせ続けた心か」「これ一つが邪魔をして、弥陀の救いにあえないのか」という、雑行雑修自力の心が分かるようになります。

還来生死輪転家
決以疑情為所止(正信偈)
生死輪転の家に還来することは(苦しみ悩みが果てしなく続くのは)、決するに疑情(自力の心)をもって止まる所となす

と親鸞聖人が正信偈に言われる、無始より迷わせ続けた根本原因である疑情(自力)の心が見えてくるのです。

そこからが求道の始まりなのです。

「どうすればこの自力の心が廃るのか」
「どうすれば、この雑行が廃るのか」
「ああ思ったら」「こう信じたら」
「どうしたら、どうしたら」と、それ一つが問題になり、それ一つどうすれば解決できるのかと悩むようになります。それが「ここ一つ」の「ここ」なのです。
山口善太郎さんの自力たたきの文章にでてくる心境は、その心です。

これは特別な人にだけ起きる心ではないのです。真剣に弥陀の救いを求める人には、聞法歴も、才能も、男女も、年令も、善人悪人関係なく斉しく阿弥陀仏によって発させられる心なのです。

蓮如上人が御文章に幾たびも

「もろもろの雑行をなげすてて」(聖人一流の章・御文章5帖目10通)

と、いわれるのも、雑行・雑修・自力の心が、弥陀の救いを求める人には必ず問題になるからです。問題になると言うことは見えてくるのです。

これ一つが邪魔をしている心が見えてくれば、それ一つ廃れば弥陀に救われるのですから、必死になるのは当然です、真剣な聞法になるのは当然です。聞くなと言われても聞かずにおれなくなるのです。
そんな心一体、いつ起きるのかと思われると思います。
「救われるのには相当時間がかかるはず」というのは、凡夫の迷いです。それこそ自力の迷情なのです。
阿弥陀仏は、そんな「そうとう時間がかかるだろう」と思っている者を目当てに、一念で救ってみせると本願を建てられました。

「時間がかかる」と思うのは、貴方の計らいであって、法(真実)にはそんなことはないのです。
真剣に、真実の弥陀の救いに向かって、全力で進んで下さい。
そんな気持ちで聞いてさえも、なかなか聞けない法なのです。まして、「そうとう時間がかかるはず」「今生には間に合わないかも」と思って聞いていたら、どうして聞き抜くことができるでしょうか。

長くなりましたので、今日はここまでにします。
「無常と罪悪」ということは、聞法と非常に関係が深いのですが、これについてもまたご縁があれば書きたいと思います。

kaiinさん、またコメントを頂ければありがたく思います。なるべく早めに回答は致します。
ブログのタイトル通りここは問答(沙汰)をする場所なので、信仰上の不審は、晴れるところまでコメントが続く限りお答えします。