安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「関係ない」とは「ある」でも「ない」でもないということ(元自称福得会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント有難うございました。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080818/1219056593#c1219589534 )

華光の教えが真実と確信しましたのでそちらに専念したいと思います。

読まれているかどうかはわかりませんが、ブログの読者の方に向けてという意味もこめて、上記部分について、誤解のないようにコメントを致します。

「華光の教え」という言い方が、引っかかったもので一言書いておきます。
元自称福得会員さんのコメントの中には、「高森教」といってみたり「華光の教え」といってみたり、団体独自の解釈が存在するように書かれている場面がよくみられます。

真実は、属人性のものではないと言うことは、元自称福得会員さんも同意をされたことですが、「団体に属する」というものでもありません。

もし「華光の教え」と、名付けられるようなものがあるのなら、「親鸞聖人の教えそのもの」とは、多少なりとも違うものがあるという前提の言葉です。
また、「団体を代えたら信心決定できる」かのように思っておられるようですが、それは全くの誤解です。「団体の雰囲気」で真実信心を得られるのではありません。

何度か足を運ばれて行かれればわかられると思いますが、「感情信心」「三業安心」に非常に陥りやすい構成員の人が多いのが現状です。

浄土真宗で大事なのは「教え」であって、「感情」でも「雰囲気」でもありません。

あなたが思い描いている「真実を知ったならこうなるはず」という雰囲気があったのでそのように思われているのでしょう。親鸞会と比べてどうこうとは私はいいません。

貴殿との議論で真宗の教えに善の勧めはないことがはっきりしました。
どうもありがとうございました

まだ勘違いをされているようなので、改めて書いておきます。
真宗の教えに「弥陀に救われるために」善をしろという、教えはありません。

「真宗の教えに善の勧めはない」という言葉には、「弥陀の救い」と「善」が関係あるということになってしまいます。

そう読めませんか?

私には、何度読んでもそのようにしかよめません。
弥陀の救いと善は、「関係ない」と何度も書いてきました。最後までそこがわかっていただけなかったことは残念至極です。

関係ないと何度書いても「善の勧め」が「ある」か「ない」かという有無の議論から一歩抜けることができなかったのは残念です。

「関係ない」ということは、「ある」のでも「ない」のでもないということです。
元自称福得会員さんも、弥陀の願力によっていつか知らされるときがくると思います。

ブログは、このまま思ったことがあれば、書いていきます。
教義安心上のことで、不明なこと、不審なことがあれば、どなたでも、いつでもコメントをいただければ、お答えします。

元自称福得会員さんもいつでもコメントいただければ幸いです。