安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

三願は、阿弥陀仏の願です(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント有難うございました。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080817/1218963638#c1219327135

一度、私の善についてまとめたものをベースとして、貴殿の理解されているところを記載願えないでしょうか?

これについてですが、
以前のコメント分から引用しますと

せっかくですので、山も山さんの出されたご和讃で親鸞聖人の教えられた善についてまとめてみましょう。

「如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながら なをもまた
 罪福深く信ぜしめ
 善本修習すぐれたり」
(中略)
18願の救いを求めようと言うところにまで進んでいない人には20願の救い(化土往生)を勧め、そのために念仏を勧めています。
(善本修習すぐれたり)

そこまで進んでいない人には19願の救い(化土往生)を勧め、そのために諸善を勧めています。
(罪福深く信ぜしめ)

まず、19願も、20願も「阿弥陀仏」の願だということは、前回も書きましたが、私は何度読んでも、「阿弥陀仏以外のもの」の願という解説文にしか読めません。

「善本修習すぐれたり」の身の人は、すでに18願の救いを求めている人です。18願の救いを求める心はいつ起きるのでしょうか?19願、20願をすぎて、ようやく起きるように読めますが、それでは「振り返って知らされる」と、自称福徳会員さんが書かれたことと矛盾するように感じます。
振り返って知らされると、元自称福徳会員さんが言われるのなら、その通り、18願真実から、振り返って説明しなければ成らないところです。

また、そのような心が起きるのは、あくまで「阿弥陀仏の願力」によって起こさせられるものです。

「罪福深く信ぜしめ」て下される方は、「善知識」でしょうか、「阿弥陀仏」でしょうか?

それについて、元自称福得会員さんからはコメントで

ただし、ここで言う善智識は真宗(18願を教える)の善智識ではありません。ただし、信後に振り返ってみると阿弥陀仏のお勧めで、阿弥陀仏の本願の働きでやらされていたことと知らされるのです。

浄土真宗の安心問答なのですが、浄土真宗の善知識ではないといわれていますが、回答を書こうとしたところ、どうにも理解ができません。

ただ、「善知識」の定義がどうあっても、上記のご和讃は、「阿弥陀仏」が、罪福深く信ぜしめておられるのです。

貴殿は私の信仰についてとやかく記載されているようですが、それは関係ありません。私の記載は親鸞聖人や蓮如上人の書かれたことを根拠としているからです。

というこでしたが、他力の世界から書かれている文章を、自力の考えを交えて読んでいるようにしか読めないのですが、そのあたりの自覚がおありでしょうか?

前々回のエントリーにも書きましたが、如来の仕事に手を出し、阿弥陀仏の上にたってあれこれ判断するような書き方にしか読めなかったのですが、これは私の読解力の問題なのでしょうか?

「善」と「弥陀の救い」は、「関係ない」ということを、関係づけて書いておられる自覚はないでしょうか?

また「それは自力の心だ」と私が書いた部分については、一貫してコメントに触れておられないのは、意図的なのか、それとも自力の心が、心にかからないから、コメントを書く際に認識に乗らないのでしょうか?

種々気づいたことを書かせていただきました。