安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

追記・「善をすてよ」だと「諸行往生の裏返し」になります。

元自称福徳会員さんへ

前日のエントリーで、追記したいことがあったので、こちらに書きます。

したがって、「雑行をすてよ」というのは文字通り、「後生の一大事を解決しようとして行う善そのものを捨てよ」と言うことと解釈すべきです。
(元自称福徳会員さんのコメントより 全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080814/1218714993#c1218984375

この一文について、書きます。

愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて、本願に帰す。(教行信証)
と親鸞聖人は、「雑行を棄てて、本願に救われた」と自らのことを書かれています。

前も書いたことですが、「弥陀の救い」と「私たちがやる善」は、関係ありません。
「善をした結果、弥陀に救われる」という諸行往生ではありません。これについては、元自称福徳会員さんも同意されていると思いますが、

「善をしたら助かるは間違い」→「善を捨てたら助かる」ということにはなりません。
「雑行を棄てて」助かるのです。

「善を捨てたら助かる」といったら、これも「弥陀の救い」と「善」が関係あることになってしまいます。諸行往生は間違いと言うことは、知っておられると思いますが、「善捨てたら助かる」というのは、諸行往生を裏返しただけで、根本的には、「善の行い」を「するか」「すてるか」という関係がある以上、「弥陀の救い」と「善」を関係づけていると言うことでは同じです。

繰り返しますが、「弥陀の救い」と「善」は、関係ありません。
関係ないから「唯信独達の法門」「信心為本」と言われるのです。

財施のことについて、よく書いてこられるので財施という言葉を使うなら、「財施をしたら助かる」これは間違いですが、「なにか足しになるだろう」という心があったからこそ、財施をしてこられたと思います。

それが「財施と救いは関係ない」とどこかで聞いたか自分で調べて、「財施をしなくていい」と、逆に思考が動いたのではないかと思います。

「財施したら助かる」は間違いですが、「財施を棄てたら助かる」も間違いです。
関係ないものを、関係づけるのを自力といいます。
自力が廃らねば、他力に帰することはできません。

聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候。その故はもろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏の方より往生は治定せしめたまう。(御文章・聖人一流の章)

親鸞聖人のみ教えは、信心一つで弥陀に救われる教えです。
「信心をもって本とせら候」と言われているとおりです。

この信心は、他力の信心、真実信心ですから、私たちが善をしたとか、棄てたとかと言うことは無関係です。阿弥陀仏から賜る信心ですから。