安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

善とはこういうものだと決めてませんか?(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント頂き有り難うございました。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080816
お忙しい中、雑行についてコメントいただきましたので、思うところを解答いたします。

雑行の話しという以前に、善悪の話しを書かねば鳴らないと感じました。

その前に雑行についてですが、

したがって、「雑行をすてよ」というのは文字通り、「後生の一大事を解決しようとして行う善そのものを捨てよ」と言うことと解釈すべきです。

と解答していただきました。

「自力の心を捨てよ」や「心を捨てよ」と書かれた根拠はどのように、解釈されているのでしょうか?

「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて、一心に「阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候え」とたのみ申して候。」(領解文)
「雑行・雑修・自力の心」は、別物ですか?

人間は五十年・百年のうちの楽なり、後生こそ一大事なり』と思いて、もろもろの雑行をこのむ心を捨て、或はまた、物の忌わしく思う心をも捨て、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて(御文章1帖目10通 吉崎)

ここに「雑行をこのむ心を捨て」とありますが、これは何を捨てよと言われているのでしょうか?

一心一向に弥陀一仏の悲願に帰して、深くたのみたてまつりて、もろもろの雑行を修する心を捨て(御文章2帖目1通 御浚え)
「雑行を修する心を捨て」と言われていますが、これは何を捨てるのでしょうか?

無常迅速・罪悪深重の私たちは一刻も早く雑行をすてる必要があります。いくら「雑行をすてよ」と言われても捨てられないのが私たちです。

そこで、「雑行=善」と思っておられる、貴殿は、「善」とは何をさして言われているのでしょうか?

どうも善悪の定義が、自分自身のなかでがんとしてあるようにお見受けします。

そもそも、「善をしなければ善因善果でよい結果が来ませんよ」と言うのには聞いてあきます。親鸞会で言うところの最高の善であるはずの財施や破邪顕正を一生懸命やっている専任講師や会員さんほど貧乏になり、病気がちになり、精神的にも病んできているではないですか。

これも
「財施」=善、
「貧乏」=悪、
「病気がち」=悪、
「精神的に病む」=悪 と決めつけて書いています。

貧乏=悪ならば、経済的に恵まれていない人に失礼です。
病気がち=悪 ならば、体の弱い人に失礼です。そんな単純に割り切れるものでしょうか。

自分で「これは善」「これは悪」と、固く信じているものがあるのではないでしょうか?
「雑行=善」というなら、その「善」が何か、分かっているのでしょうか?

人間の知恵では、善悪と言ったところで相対的にしかとらえられません。
人間が「これこそ善」と思えるものは、立場をかえると変わっていくものです。

「善悪の二つ総じてもって存知せざるなり」(歎異鈔)

と親鸞聖人がいわれているのも、その為です。

仏さまではないのですから、善悪はわかりません。
別の言葉で言えば、貴殿が「これが善」「これが悪」と思っているような善悪はないのです。

それなのに、非常に雑行や善といわれるものについて、簡単にというか、簡略化して理解をしているのではないと思います。

「(自分で思っている)善で助かるのではない」
「(自分で思っている)善で助かろうとするのではない」
上記のような理解ではないかと思いました。

財施をしたら貧乏になるのではありません。間違った財施に結果的になっているから、経済的に困窮するのです。

財施には、(貴殿が思っておられるような)善も悪もありません。