安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

元自称福徳会員さんの2つめの質問について

元自称福徳会員さんへ

2つめの質問についてお答えいたします。

次に、19願の善(破邪顕正・財施)を実行するにあたり、その心がけを「方便と思わずに善ができるかどうか真剣にやってみなさい」と取り組みなさい、と教えています。「方便と思わずに」と言うのであればなぜ、「方便と思わずに真剣に善をやって化土往生できるかどうかやってみなさい」と教えないのでしょうか?親鸞聖人は19願を教えられているところでは善を行い化土往生することを勧めておられます。ただし、これは18願を求めている人・真宗の人に勧めていることではないと私は解釈しています。さすがに親鸞会では「化土往生できるかどうかやってみなさい」と勧めては真宗にならないので「善ができるかどうか真剣にやってみなさい」と勧めているのでしょう。阿弥陀仏も親鸞聖人も「19願の目的は化土往生」と教えられているのに親鸞会では「19願の目的は善ができるかどうか真剣にやってみること」になっています。これは本来、真宗では捨てるべき19願を引っ張り出して破邪顕正・財施を勧めていることから来る矛盾でしょう。しかし、矛盾と感じる心に対し「未信のものは方便が分かるはずがないのだから、つべこべ言うな」と言うことのようです。
以上が2点目です。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080714/1216031356#c

まず、このお尋ねについて、誰を対象にいっているのかと言うことを明確にしないといけません。

「方便と思わずに善ができるかどうか真剣にやってみなさい」と取り組みなさい

このように言うときの相手は、「我々に善などできるものではない」と、いわゆる造悪無碍の異安心や、それに近い考えをしている人に対して言っているのです。

真宗の多くの道俗は、死んだらお助けというような、または、他力と言うから簡単に助けて下されるのだろう。何かするのは計らいだからいっそ何もしない方がいい。と、他力を聞き間違えてそのように思う人が多くあります。

また、仏法を求めている人でも、前回のエントリーに書きましたが、19願の善を勧められた相手というのは、「発菩提心 修諸功徳」と19願に誓われているように、真剣に弥陀の救いを求めている人(発菩提心)、頭燃をはらうような気持ちで、真剣に求めている人に言われているのでありますから、「どうせ方便だから捨てものなのだろう」という気持ちには、19願の行者はなりません。

19願の行者でもないのに、自分はもう19願の軌道に乗っている、20願の行者でないかというように勝手に思っている人に対して
「方便と思わずに善ができるかどうか真剣にやってみなさい」というのです。

その意味は、「つべこべ言うな」という意味ではありません。
「体にかけて法を求めよ」という意味であります。

一方この「体にかけて法を求めよ」というのも、本来の意味は、「真剣に弥陀の救いを求めよ」「平生の一念の救いを真剣に求めよ」という意味なのですが、「体の行い、口の行いを、一生懸命とにかく、心はともかく動かせ」という意味だと思っている人も多いようです。

あくまで「信を獲よう」「いま弥陀の救いを求めよう」という心があった上での、善だということを知っていなければなりません。

その心がなくても、体にかけて善さえすれば真実が知らされるというのであれば、実践倫理の人はかなり体にかけて良いことをしています。そう言う人たちは、それこそ真剣に善に励んでいます。「善ができるかどうか真剣にやっている」のですから、知らされるものがあったのではないでしょうか。

また、そういう人の中には「実践倫理で善のできがたい自分を知らされて仏法を聞くようになった」という人もあります。
こういう人は、「善のできない自分」と知らされたわけですが、それと、「善ができるかどうか真剣にやってみなさい」は、本来の意味から言えば違います。

ただ、「善ができるかどうか真剣にやってみなさい」という言い方には、いっている人がもし、
「善ができるかどうか真剣にやってみなさい」というのは
「やれば善のできない自分と知らされ、その時救われる」と思っていっているのなら、それは間違いです。

善をやって(因)、善のできない自分が知らされ、救われた(結果)と言えば、
自力の善(因)から、他力がでたと言うことになり、浄土真宗にはなりません。

ですから

親鸞会では「19願の目的は善ができるかどうか真剣にやってみること」になっています。

こう思っている人がいるかも知れませんが、そうではありません。

弥陀の救いを真剣に求める心になった人に、勧められているのが19願の善です。
そこまで、教えを真剣に聞き、真剣に弥陀の救いを求めなければ、その心にはなりません。

前回のエントリーに紹介した山口善太郎さんのような心は、文字で読んで
「そんな心になるんだろうなぁ」と思っているのは、観念の遊技で、その心に実際なった山口善太郎さんは「泣いて甲斐なきことなれど、方角立たずに泣くばかり」と言われています。

「観念の遊技ではない」というのは、実際にその身になった人でなければ言えない言葉ではあります。
法座の会場でも、のんびり座って聞いているのは、体にかかっていないのです。真剣に求める心になれば、どこかに教える知識はないかと、探さずにおれません。聞かずにおれない気持ちになるものです。

そこを水際たてて説かれる人はなかなかおられないので
「真の知識にあうことは かたきがなかになお難し」と言われています。

三願転入のお話を聞けば、現在仏法を聞いている自分はもう19願と思っている人も多いでしょうが、少し前のエントリーで「19願の入り口にも乗っていない」という言い方は、そういう意味なのです。

親鸞会で仏法を聞いている人の中で、19願の行者のように、それこそ真剣に弥陀の救いを求めている人は確かにおられます。

ただ、そこはいつの時代でも、どこの国でも決して多くはないのです。
「国に一人、郡に一人」と言われたり、「易往而無人」とお釈迦様が言われるのは、決して誇張ではありません。「極難信」とか「難信の法」と言われるのも、それだけ求めぬく人がなかなかおられないからです。

阿弥陀仏の兆載永劫のご苦労は、それだけ「信ずることもなおかたし」だからです。

「つべこべ言うな」と私は言いません。真剣になるまで、真剣に求めよと、信を求めよという以外にありません。その上での疑問はいくらでも言ってくださればありがたく思います。

このブログも、何人かの方が訪問してくださっているようですが、元自称福徳会員さんに限らず、教義上のご不審、信仰上のお尋ねがありましたら、いつでもコメントを頂ければできる範囲でお答えいたします。

生きているのはこの真実信心を獲得する為であり、浄土往生の身にさせていただくことなのです。