安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

19願の軌道に乗せるのが難しい(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント頂き有り難うございました。

ご回答を頂き有り難うございました。
1点はっきりしません。親鸞会で勧めているところの諸善は弥陀の救いに全く関係ないもので、単に因果の道理の観点から教えられていると言うことでしょうか?
そうであるならば、諸善を勧める根拠としてわざわざ19願を引っ張り出してくる必要はありません。親鸞会では19願をどのように教えているのでしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080723/1216814963#c1216874953

お尋ねの件について、お答えいたします。

以前、元自称福徳会員さんが書かれていたとおり、三願転入は親鸞聖人が弥陀に救われられて振り返って、あれは方便であったと言われた体験告白です。

19願で勧められているのは「修諸功徳の願」と言われるように、万行諸善を勧められています。
誰でも彼でも、諸善をしている人はみな19願の行者かというとそうではありません。
「発菩提心 修諸功徳」と誓われているとおり、「菩提心を起こして、諸々の功徳を修している人」(真剣な心で、善を行っている人)が、19願の行者です。

「真剣な心」というのは、どういう心で善を行っているかというと
「至心発願 欲生我国」と19願で誓われているように、弥陀の浄土に生まれたいと、まことの心で願っている心です。

「弥陀の浄土に真剣に生まれたい」という心で、真剣に善を行っている人のことを言います。
「頭燃を灸うが如く」善をしている人をいいます。

では、そんな心になった人、いわゆる、今日かも知れぬ無常のわが身に驚き、また、暗い後生に驚き、また、自力の心に驚いた人が、「どうしたら弥陀に救われるだろうか」と、真剣に弥陀の浄土に生まれたいと、それこそ本気になった人に、勧められているのが19願の善です。

阿弥陀仏の方からいえば、「そんな真剣な心にさせて、善をさせてみせる」のが19願です。

では、そんな心で、真剣に善をしている人が、どれだけあるでしょうか。
「発菩提心」となるのが大変なのです、「弥陀の浄土に生まれたいと真剣になる人」が、なかなかいないのです。
このブログを読まれている方の中には「いや、私は真剣に求めている」という人も多くあると思いますが、よく言われる「後生が苦になって眠れなくなった」のでしょうか。「本当に今救われなかったらどうなるのか」
「今死んだらどうなるのか」と真剣に求めたことがあるのでしょうか。

これはあくまで個々人によって、表現は異なりますので、必ず上記のような言葉となって現れるわけではありません。

ただこういうように質問されると「それは相当信仰の進んだ人だよ」と答える人も多くあります、「なかなかそんなようにならないから困ってるんだよね」という人もあります。
「そんなようにならなくて困っている」とさして、困ってなさそうに言います。

「後生に驚かない」から三世の諸仏も見捨てたのではないでしょうか。
こういうと、「凡夫にそんな驚く心はない」と言う人もあります。
だからこそ、そんな驚く心を起こして下されるのが、釈迦弥陀の善行方便であり、19願の願力、20願の願力の働きなのです。

その軌道にのるまでは、どうしても因果の道理で導くしかないのです。
三願転入の軌道にのる、いわゆる横の線に乗った人に、19願の諸善や、20願の念仏の勧めが関係してくるのです。

仏縁に恵まれ、今生で仏法を求めている人は、たしかに仏縁深い方々と思います。
仏法聞き難しとお釈迦様が言われるとおりです。

しかし、本気で弥陀の浄土に、いま生まれようと、本気になる人がなかなかないのです。
実機からいえば、そんな心があるとはいえませんが、本気で求めようという気が起きるまでの人には、どう説いたところで、因果の道理からいう廃悪修善としか実感できません。

「後生に驚き、なんとしても聞き抜かねばならん」という気持ちになっていないから、どれだけ諸善を行っても、19願で教えられているそのままの善にはなりません。

しかし、三願転入の軌道に早くのりなさいという意味で、親鸞聖人は教えられ、親鸞会では善を勧めています。

じゃあどうしたら、そんな心になるのかという質問も出てきますが、
「釈迦弥陀は慈悲の父母
 種々に善行方便し」
といわれるように、釈迦弥陀の善行方便により起こさせられる心なのです。
振り返れば分かることではありますが

信前にはどうかんじるか、山口善太郎さんの言葉から引用すると

「少しも聞く気の、ない奴に 不思議に聞く気が、起こりそめ」

というのが実感です。

この歌の最後には

「そこで、いよいよ難信義
 泣いて、甲斐なきことなれど
 方角立たずに、泣くばかり」

とありますが、こんな心にさせられるのですが、どうにもならぬ自力を知らされ、泣き泣き仏法を求める心になる人がなかなかありません。

その人の仏縁といってしまえばそれまでですが、なんとか、そんな心に早くなってもらいたいと、お釈迦様は因果の道理を説かれ、19願の軌道に乗せようと、一切経を説かれたのです。

どうすれば、真剣に求めるようになるのか、理屈が好きな人には理屈詰めで、感情的な人には感情で、阿弥陀仏は種々に方便されています。

それもこれも、一日も早く、無常の命なのですから、信心決定してもらいたい、弥陀の浄土に生まれさせたいの、弥陀の大悲の願力の働きなのです。
その願力によってつくられた、南無阿弥陀仏の働きなのです。

真剣に求めよといいますが、その「真剣に求める心」になかなかならないからです。

19願の善を根拠にするのは、そこまで勧めという阿弥陀仏の本願、親鸞聖人の三願転入から言われていることです。