安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

方便を捨てよとは、「自力の心」を捨てよ(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメントを頂き有り難うございました。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080721/1216643406#c1216777098

さて、質問です。親鸞聖人は何度も「19願、20願は、方便の願である」ということを教えられ、「これらを捨てなさい」と教えられたわけですが誰に対し、教えられたことでしょうか?信心決定している方は既に捨てているわけですから、信前の人に決まっていると思うのですがいかがでしょうか?

「方便を捨てて、真に入れ」というのは、蓮如上人の御文章では、「もろもろの雑行をすてよ」と言われているところです。
持ってもいない人に捨てよとは言われませんので、雑行雑修自力の心が、廃っていない人に、「捨てよ」と言われているので、信前の人に対して言われた言葉です。

私は上記のようにように教えるのが真宗だと理解しています。ところが高森教では独特な矛盾のある教え方をしています。
りかちゃんさんへの私の回答として以下のリンク先のコメントに示したとおりです。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080714/1216031356

矛盾点ということで、以下の文章を書いていただきました。

一方、親鸞会では人集め・金集めのためか盛んに破邪顕正・財施を勧めています。その根拠として19 願を持ち出しています。(なぜか念仏は盛んには勧められていないようですが…)。親鸞会でも19願は方便の願でそれでは助からないと教えていますが、「真実に近づけるために必要なので19願を方便と思わずに善ができるかどうか真剣にやってみなさい」と勧めているようです。私は「助からない願と教えられた上で、方便と思わずに善ができるかどうか真剣にやることなんてできるはずがない」と思います。世間ごとに喩えると山も山さんからお叱りを受けるかもしれませんが、『福引のお兄さんが、「この中にあたりは入っていませんよ。でも、くじを引く人はそのように思わずに引いたくじがあたるかどうかわくわくしながら引いてみなさい」と言われてもそんなことはできませんよ』と言う主張です。それに対し高森先生・山も山さんは「未信のものは方便が分かるはずがないのだから、つべこべ言うな」とおっしゃられます。その根拠として出されているのが「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」です。
以上が1点目です。

「つべこべいうな」とは私は言うつもりはありませんが、破邪顕正・財施が勧められていると言うことですが、説明する上で、まとめて「諸善」として説明をします。

19願で勧められるのは、「諸善」です。
しかし、「方便だから捨てよ」と言われたのは、「諸善」という「行為」ではありません。「諸善をあて力にする心(自力の心)」は「助からないから捨てよ」と言われているのです。

ですから

私は「助からない願と教えられた上で、方便と思わずに善ができるかどうか真剣にやることなんてできるはずがない」と思います。

19願でなぜ助からないかというと、その諸善をしてもそれをあて力にする心(自力の心)が廃らないからです。そんな心でどれだけ諸善に励んでも、救われない(他力にはならない)のです。

なので、諸善の行いそのものと、弥陀の救いは無関係です。関係するのは、その諸善をあてにする心(自力の心)です。
前回のエントリーでも書きましたが、「諸善の行為そのものは、弥陀の救いと無関係なら、やらない」というのも、関係づけている心だから、これも自力です。

「廃悪修善」は、仏教の根幹因果の道理から教えられることですから、信前だろうが、信後だろうがやらねば善果は返ってきません。
「救われるために善をしろ」というなら「救われたら善をしなくていい」ということを勧めることになるので、悪を勧めているのと同じ事になります。

お釈迦様が、目の見えないお弟子が裁縫をする際、針に糸が通せず困っていたところを、弟子にかわって糸を通されたという話しは聞かれたことがあると思います。

譬え仏の覚りを開かれた方でも、因果の道理は、道理なので善をしなければ善果はやってはきません。
信後になれば、ありとあらゆる善果が自動的にやってくるように思うのは、仏法の聞き誤りになってしまいます。

蓮如上人が
「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」と言われている通りです。
「雑行」を捨てよは「自力の心」を振り捨てよであって、「諸善を捨てよ」ではないのです。

未だ信心決定していない間でも、真剣に善をせずにおれなくなる、無関係と言われても、自力の心に驚く人は、諸善に励まずにおれなくなります。それは全く阿弥陀仏の19願力、20願力によって起こされるのです。また、それを伝えられるお釈迦様が方便されているところなのです。

「釈迦弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまいけり」(高僧和讃)

と親鸞聖人は言われています。

コメントのもう一つについては、また明日にでも書きます。

最後に、前回のエントリーについてのコメントについて、簡単にお答えします。

「会長先生のご指示に無条件で従い、信心獲得を本といたします」の表現では規則と信心決定を関係づけるものではないというのは無理な話でしょう。講師の方がミスリードされても致し方ないと思います。

「親鸞学徒聖則」(会員全員)には、「信心獲得することを本と致します」とあります。
「講師部聖則」は、団体職員としての規則がその上に足して書かれてあるだけで、「無条件で従う」ことと「信心獲得」は関係ないという理解です。

「信心獲得することを目的とする」親鸞会講師は、団体構成員として指示に従いますといっているだけのことです。「指示に従えば救われる」ということではないでしょう。

→盗作を隠蔽するためと言う理由であれば浄土真宗の教義からは外れないと言うことでしょうか?

いわゆる教義的な正邪と、法律道徳的な正邪でわけていわねばならないところだと思います。
50年近く前の、会員数200名前後のころにガリ版で発行された会報に、第3者の書いたものをそのまま引用したものがあるということについてですが。

教義的な正邪という点で言うと、その引用部分が、親鸞聖人の教えに反することであったなら、それは大変な間違いです。しかし、そのような親鸞聖人の教えに反する部分は、引用箇所にはみられません。

また、引用元の部分が、親鸞聖人の教えと反しないなら、それと違ったことを書いてしまえばそれこそ大変です。教えを曲げることになってしまいます。

「引用された文章が、高森先生の書かれたものでなかったからショックを受けた」という話しも聞いたことがありますが、それは法律的な部分というよりも、やはり、その人が、浄土真宗の教え、真実の弥陀の救いを、法を説かれる方の属人性のものと思っているところに原因があるのではないかとおもいます。

あくまで教義の上において、法を曲げる以上の恐ろしいことはありません。
誰が書いたものでしょうが、それが真実ならば、教義を伝える上においては問題はありません。

「オリジナルな文章でない」ということにショックを受ける人の、もう一つの誤解は、「信心決定された方」は、「みんな親鸞聖人や覚如上人のような文章が書けるようになる」という思いです。

信心決定したからと言って、知恵や才覚が、常人のレベルを遙かに上回る人になるのではありません。
親鸞聖人が、教行信証を書くことができたのは、体験だけではなく、「深い教学」があったなればこそです。「教学」とはすなわち「学問」です。「文字」です。
そういう方面の才能に恵まれていなければ、信心決定したからといって、親鸞聖人のような文章が書けるのではありません。
教学があっても、文才がなければ、覚如上人のような文章は書けないでしょう。
また、信心決定したから、文才が身につくということではありません。

真実信心を獲たら、深い教学と、分かりやすい説法、流れるような文章が書け、体力も強靱、そんな人になるのではありません。

布教において、「深い教学」「分かりやすく説法する力」「文章力」「体力」いずれもあれば本当に素晴らしいことと思います。それぞれのものについても、持って生まれたものと、本人の努力精進がなければ身につくものではありません。
信心決定したというのは、芽がでたようなものであり、御恩報謝の活動(教人信)には、正しい教学が不可欠です。それを学ぶことで、芽から大きく枝葉を茂らせ、木になっていくのです。

「引用があった」ことにショックを受ける人は、そういう誤解をしているのだと思います。

次に法律面についてですが、法律については私も詳しくはありませんが、現在の法律上において、その引用部分を、引用元を明らかにせず一般の書店で販売したり、論文として発表すれば、問題にはなると思います。

それをどう思うかと言うことは、私は著者ではないのでわかりません。