安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

未信の者は絶対に方便を論ずることはできないのか(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

お忙しいところ、コメントいただきありがとうございました。
こちらも一日遅くなり、申し訳ございませんでした。

コメント全文はこちら
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080708/1215519694#c

化の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもって真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆえに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに化の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし、ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。

上記の、教行信証のお言葉についてお尋ねでしたので、回答いたします。

どうして教行信証の前後のお言葉がある場合と、「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」を抜き出した場合とで意味が違ってくるのでしょうか?

「何が真仏土(報土)に生まれる因かわからないから、救われないのだという意味です」説明をしたことについての疑問ですが。

教行信証のこの御文自体を、文字通りで解説すれば上記のようになります。

そこで、

教行信証の前後のお言葉をつけた上で、「未信の者は方便を論ずることはできない」と教えられた根拠になることを示されるか「未信の者は方便を論ずることはできない」と教えられた根拠はないとお答えいただきたいと思います。

ここで、この教行信証のお言葉に限らず、まず「方便とは何か?」というところからいいますと、「方便」とは「真実に近づけるために必要なもの」であります。

また、いまから書くこと自体は、言葉や聖教のご文の意味からいうことなので、別段めずらしいことを書くわけではありません。

親鸞会だから、本願寺だからという話でもありません。仏法ということについての記述なので、そこに独自の解釈があると思われれば、またコメントで教えていただきたく思います。

真実に近づけるための方便ですから、導く先の真実を知らなければ、そこへ近づけさせるもの(方便)を論ずることはできないでしょう。ということをいっています。

なにも「体験」や「信心」に固定した話ではありません。

真実とは、「教え」であり、体験といっても、教えのとおりの体験であり、教えのとおりの信心なのです。「教え」にあわない体験や信心をもってきて、そこに導く方便といわれても、それは導こうとする先(目的地)が、真実ではない以上、どれだけ饒舌に具体的に語ったところで「方便」とはいわれません。

自分の通ったこともない道、いったこともないところへ、人を案内できるのでしょうか。

「知識は針のごとし、同行は糸のごとし」といわれるとおりです。

そういう意味で「未信のものは方便を論ずることはできない」といっているのです。

その根拠として、上記の教行信証のお言葉を出しましたが、

「真実に入って、方便が方便としらされる」=「方便が方便とわかるのは真実に入ったとき」

であり

「何が方便か、何が真実かわからない間は救われていない」のです。

別の言葉で言えば、「何が方便であり、何が真実であるかわかった」=「真仮がわかった」=「弥陀に救われた」ということになります。

「真と仮」を別の言葉で言えば、

「真」は、18願、「仮」は、19願、20願 
(菩提心さんのコメントにお答えしますと、十法衆生と誓われた願(三願)についての真仮をいっているので、コメントで教えていただいたこととは何も矛盾しません)

蓮如上人のご文章によく出されるお言葉で言いますと

「真」は、真実信心、「仮」は雑行雑修行自力の心

です。

前回のエントリーでも書きましたが、では「絶対に未信の者が方便を語ることは不可能か?」ということではありません。

上記の「何が真で何が仮か」「何が真実で、何が方便か」というのは「教え」です。

それについて、お釈迦様のお経をはじめ、善知識方、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人が教えられているのですから、その教えを正しく知り、正しく伝えることは、そのまま「真仮」を伝えることになるのですから、「絶対できない」とはいえません。

しかし、(「絶対にできない」とはいえない)=「できる」とは、とてもいえません。
とても、難しいことだからです。

真実わかっておられた善導大師が「難きが中に転た更に難し」といわれ、親鸞聖人が「教うることもまたかたし」といわれているのですから、ましていわんや、真実が真実と知らされなければ、という意味で、「未信の者が方便を論ずることはできない」といったのです。

上記のことから、「できない」ということが不適切だと思われたのなら。

「未信の者が方便を論ずることはとても難しい」といたします。

哲学的とか、学問的という意味ではなく「難信の法」には違いないのです。だから、教えられる方は、そこに大変なご苦労をしてこられたのです。

問題なのは、教義の理解が不十分なのに、「自分でこれが方便だと思うもの」を、方便だといって人に勧めることなのです。

方便が方便と知らされるのは、確かに真実に入ってからではありますが、親鸞聖人のご著書、覚如上人、蓮如上人の書かれたものには、真実と方便について、大変詳しく書かれています。

そういう意味から、「方便がわかるものではない」とか「自力がわかるものではない」ということではありません。

自力が廃らなければ、他力の救いにはなりませんから、自分が持っている自力も、計らいも、全く救われる前にはまったく分からないなら、捨てよとも言われません。

体にかけて、心にかけて、真面目に真実信心を求める人には、必ず、何が捨てもので、何が拾いものか、分かるときが来ます。

それが教えですから、教えを聞かねばなりません。

コメントで言われることは、私もそのように感じるところではあります。

「教え」とは、「弥陀の本願」であり、浄土真宗の教えを聞き求めるものからいえば「親鸞聖人のお言葉」「覚如上人のお言葉」「蓮如上人のお言葉」です。

それを伝える布教使の責任が重いのは言うまでもありません。