安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「なんのようもなく」は「ただ(only)」「だけ」(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんのコメントより

全文は
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080704/1215183799 のコメント)

一方、「ただ」をOnlyの意味でとって、おかしくなるところはひとつもありません。これは味わいになるのでなんともいえませんが、Onlyの意味を込めたほうが適切なところに使われていると思います。

「ただ」、「唯」は仏教語ではなく、一般の言葉です。これを状況により「他力を現す」「Onlyの意」で使い分けるのは無理な話です。使い分けると主張するのであれば高森先生や貴殿の味わいを述べるのではなく、その根拠を客観的に示す必要があります。

味わいといわれてしまえば、それまでですが、「ただ信心」「ただ念仏して」は、元自称福徳会員さんが言われるとおり、オンリーではありますが、「阿弥陀仏の願力のみ」と分かりやすくいうために、そのような説明になっております。

「ただ=オンリー」としても意味は通りますと、前回エントリーに書いたとおりです。
ただに続く言葉が、他力(阿弥陀仏のお力)となったときには、「自分の力ではない、阿弥陀仏の願力のみによって」ということを言うために、そのようにしています。


なんのようもなくについてですが

「なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて」とあれば「(財施や破邪顕正などの)その他のことは不要であるが、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつることは必要」ということです。「なにのやうもなく、雑行をすてよ」とあれば、「雑行をすてること以外は不要であるが、雑行をすてることは必要」ということです。そういう意味からすれば「なんのようもなく」を「ただ(Only)」に置き換えてもほぼ同じ意味になると思います。

聞即信の一念を突破するには、という意味での「なんのようもなく」でありますから、私たちの行い、考え、計らいは一切自力なので必要ない、間に合わないと言うことは、元自称福徳会員さんもご存じの通りです。
「なんのようもなく」=「ただ(only)」でも、文章としては意味は通ります。
弥陀に救われるには、「雑行をすてるだけなんだ」ということです。

では、どうやって雑行雑修自力の心をふりすてたらよいのでしょうか?
それについて、どのように元自称福徳会員さんは、考えておられるでしょうか。
「ただ(Only)」というなら、私たちが普段使う言葉で言えば「だけ」ということです。

弥陀に救われるには雑行をすてる「だけ」です。自力の心をすてる「だけ」です。
�わが身はあさましき罪ふかみ身ぞと思いて、弥陀如来を一心一向にたのむ�「だけ」です。

なぜ、『「なんのよう」もなく』となると突然、阿弥陀仏のお力のことになるのでしょうか?おかしな話です。これは「なんのようもなく」に特別な意味があるのではなく、それが修飾している「雑行をすてる」とか「弥陀を一心一向にたのむ」とかのお言葉が阿弥陀仏のお力でなされるものであるので貴殿はそのように解釈してしまったのだと思います。

これも、阿弥陀仏のお力でなされるものです。自力の心で行うあらゆる行がまにあうということではありません。

「なんのようもなく」は仏語ではなく、一般の言葉です。「阿弥陀仏のお力による」と主張するのであれば高森先生や貴殿の味わいを述べるのではなく、その根拠を客観的に示す必要があります。

「なんのようもなく」は言われるとおり、一般の言葉です。
「なんのようもなく雑行をすてよ」と言われれば、「雑行をすてるだけ」という意味です。

阿弥陀仏に救われるかどうかは、雑行雑修自力の心が廃るか、どうかで決まります。信疑決判ともいわれますが、聞即信の一念で、晴れるのは、自力の心であり、無明の闇ともいわれるものです。

どうすれば阿弥陀仏に救われるのか、なにかの行が足りないからではありません。
雑行がすたらないだけです。自力の心がすたらないだけです。
蓮如上人が言われているのは、ただそれだけの意味で、他になにもありません。

私たちの行ではないからこそ、阿弥陀仏のお力によるのだと書いたのはそのためです。

阿弥陀仏のお力によるというのは、元自称福徳会員さんがいわれるとおりです。

そうなりますと、では、どうやって、元自称福徳会員さんは、その「雑行をすて」ようと思われているのでしょうか?重ねておたずねしましたが、この一点が、前のエントリーでも書いたように、弥陀の救いを真剣に求めると、そこ問題になってくるのです。