安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「なんとように心をも持ち」と「なんのようもなく」の関係について(元自称福徳会員さんのコメントより)

「なんのようもなく」について

元自称福徳会員さんのコメントより
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080701/1214903570#c1214983237

コメント頂き有り難うございました。

ただは唯一の唯、Onlyの意味しかありません。歎異抄に「ただ念仏」とある場合のそのときの念仏が他力の念仏を現しているだけです。念仏が自力か他力かの判断は文の前後で判断するしかありません。ただがついているかいないかは判断基準になりません。たとえば「ただ念仏しているだけでは助かりませんよ」と言った場合、ただは付いていますが自力の念仏のことになります。

歎異抄の「ただ念仏」「ただ信心をもって要とせられたり」の部分を指していったのです。
蓮如上人が、「世の中に人のあまねく心得おきたるとおりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかり称うれば」といわれた、「ただ」とは、意味が違います。

歎異抄では「ただ念仏して、弥陀に助けられ」とありますから、「弥陀に助けられ」た、「ただ」です。

「ただ念仏」の「ただ」が、唯一とした場合でも
「ただ念仏」とは、「念仏のみ」
「念仏のみ」とは、「(他力の)念仏のみ」
「他力の念仏のみ」とは、「他力による」ということですから、意味に不自然なところはないと思います。

次に御文章についてですが

さればこの信心をとりてかの弥陀の報土にまいらんとおもふについて、なにとやうにこころをももちて、なにとやうにその信心とやらんをこころうべきや。
ねんごろにそれをきかんとおもふなり。
 答へていはく、それ当流親鸞聖人のをしへたまふところの他力信心のおもむきといふは、なにのやうもなく、わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、(二帖目第八通)

「なにのやうもなく」に対応している言葉として『「なにとやうに」こころをももちて、「なにとやうに」その信心とやらんをこころうべきや』がありますが、「なにとやうに」はどのように解釈すべきでしょうか?

「なにとように」ですから、「どのように」という意味です。

前段の問いの部分は、
「弥陀に救われるには、どのような心で、どのように信心を決定すればいいのでしょうか?」ということです。
平たく言えば「どうすれば弥陀に救われますか?」と聞かれています
その答えとして、蓮如上人は、「なんのようもなく」と答えられています。
「なんのようもなく」「弥陀如来を一心一向にたのみ」とあります。
「弥陀を一心一向にたのむ」とは、阿弥陀仏に救われるということですから、「弥陀に救われる」には、「なんのようもなく」なのだと言われています。

弥陀に救われるとは、前のエントリーにも書いていますが「雑行雑修自力の心が廃った」ことでから、
「雑行雑修自力の心が廃る」には、「なんのようもなく」であるといわれているのです。

このような御文章を出されたと言うことは、方便の勧めと関連して出てきた質問だと思います。確かに、財施や顕正などの善をすれば廃るとは、書かれていません。

「なんのようもなく」を、「なにもしなくていい」と解釈する人もありますが、とても聞き誤りやすい表現になってしまいます。

前のエントリーでも書きましたが、無常に驚き、どうすれば弥陀に救われるのかと真剣に悩む人が、この部分を読んだときには、「なんのようもなく」=「なにもしなくていい」のだから、じっと座って弥陀の救いを待とうか、というように悠長に構えてはおれません。

「なにもしなくていい」のなら、もう助かってもいいはずだ、何かが足りないはずだ、何が足りなくて助からないのだろう、「なにのようもなく」とは一体どういうことだと、「財施などの善は往生の一段には不要」=「なにのようもなく」と御文章を読んでも、何かをせずにおれません。

これが本当の「せずにおれない」心です。
またこの心こそ「自力の心」なのです。

「財施などの善をすれば信仰が進むだろう」と思う心とは、救いを求めているという点では言葉上似ていますが、その心は相当違います。

蓮如上人のこの「なんのようもなく」お言葉は、次にでてた御文章2帖目14通も、ほぼ同じ事ですが、
『「なにとやうに」こころをももちて』
『なにの要ぞといへば』と問いかけてきた人に言われているお言葉です。

「ただ念仏」の「ただ」にもいろいろあるように、
「なにとように」こころをも持ちて、にもいろいろあるのです。

真剣に弥陀の救いを、体にかけて求める人が問いかける、命がけの問いが『「なにとように」こころをももちて』なのです。

そんな人に答えられている「なんのようもなく」です。

単に、「なにしなくていい」と、体にかけて求めたことのない人が思い描く意味とは全くことなるのです。

ひまわりひまわりさん、コメント有り難うございました。

「なにとやうに」はどのように解釈すべきでしょうか?←親鸞会では、財施、法施活動を指すんでないでしょうか?信心といっても、他に考えられません。

このコメントを読んで思いましたが、繰り返し「どうしたらという真剣な問い」とお答えしましたように、これは、よく聞かれる、後生に驚きが立つ前の、聞法求道をしていく上での心がけを聞いた言葉ではないのです。

ですから、他の場面での「聞法の心構え」のような場面にあてはめるとあいません。