安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

方便について6(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント頂き有り難うございました。
コメント全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080624/1214304760#c1214357915

言葉遣いについては、不快に思われるところがあり、先にお詫び申し上げます。

「この地獄のカリキュラムをこなせば東大に合格できますよ」というのと「この地獄のカリキュラムをこなせると思うこころがあるのならやってみなさい。」ということと同一でしょうか?聞いた生徒は同じ気持ちで取り組むことができるでしょうか?(以下省略)

これは、受験の話しなので、弥陀の救いには適当ではないと思います。「できると思う心」といったのは、「やればできる(救われる)」という自力の心をさしているので、同一かどうかといわれても、当てはまりません。
もう一つについても、聖道仏教のような、自力修行により覚りがひらけるという話しになるので、弥陀の救いをいかに伝えるかという方便について当てはめるのは適当ではないと思います。

導き方(言い方)によって導かれるものの真剣さ・行動が違ってくると言うことです。

導き方によって、聞く方の真剣さが変わってくるというのは、本当にその通りです。
「念仏さえ称えておれば、死んだらお助け、死んだら仏」と言われれば、誰も真剣に弥陀の救いを求めようとは思わないでしょう。

お釈迦様や親鸞聖人のお気持ちは、「できると思うこころがあるのならやってみなさい。」だったと思います。しかし、そのような表現をされましたか?と聞いているのです。これについてコメントをお願いします。

もっとも分かりやすい言い方は、御文章です。
「もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば」(聖人一流の章)
「もろもろの雑行(雑修自力の心)」をなげすてなさい。と言われています、元自称福徳会員さんは、どうやってなげすてるんでしょうか?

助かりたい(雑行雑修自力の心をふりすてたい)心があるなら、そのもろもろの雑行(雑修自力の心)をふりすてよ、と蓮如上人は御文章のいたるところに勧めておられます。

蓮如上人が、「御文は弥陀の直説」「凡夫往生の手鏡」といわれるように、お釈迦様、親鸞聖人の教えられなかったことは一つも書かれていません。
その蓮如上人が、「雑行をすてよ」と何度もいわれているのは、
言葉をかえると
「(自分の力で)雑行をすてられると思うのなら、やってみろ」といわれているのです。
もちろん結果からいえば、自力で自力をすてることはできません。
他力によらねば自力が廃るということは絶対にありません。

しかし、何としても弥陀の救いにあわねばと真剣に求めたならば、かならずこの自力の心が問題になりますし、自力をどうしたらすてられるかと悩みます(悩むと言うことは、なんとかしたらなんとか捨てられるという心があるからです)
どうぜ自力は、自力ですてられないのだからと、すぐさま弥陀をたのむような素直なものなら、阿弥陀仏は三願を建てられなかったのです。
また、たのんだつもりでも、「これでいいんだろうか」「早く助けに来てくれないだろうか」と計らう心も、疑う心も、まったく変わっていませんから、救われていません。
正信偈に「邪見驕慢悪衆生」は「信楽受持すること甚だもって難し、難の中の難これに過ぎたるはなし」とは言われないのです。
「自分の力でなんとかすればなんとかなれる」または「自分は弥陀をたのめるほどの素直なもの」と思うほどの、邪見驕慢はありません。

口に出しては言わなくても、自覚はたとえしなくても、「弥陀をたのめ」と何十回も聞かされ、三願転入の話を聞いて、最後に、「自力は間に合わない」と何十回聞かされても、弥陀に救われないのは、
「できると思う心」が頑としてあるからです。
だから、「できると思う心があるならやってみなさい」と勧められるのです。

念のため、以下の質問にもお答えください。

すみませんが、時間の都合で、また明日お答えします。

最後に

なお、貴殿は私が方便は不要だとか軽んじていいものだと主張しているかのように受け取っておられるようですが、それは認識違いです。

これに関しては、私もそうは思っておりません。
とても真面目に弥陀の救いを求めておられる方だと拝しております。

目的は、弥陀の救いであり、信心決定以外にはありません。
それ以外に人間に生まれた目的はないのですから、目的と手段を間違ってはならないと思います。