安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

方便について5(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんよりいただいたコメントより
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080623/1214231987#c1214273008

「阿弥陀仏は19願・20願を方便であるとおっしゃられているでしょうか?また、釈尊は聖道諸経の中に「このお経は方便ですよ」とおっしゃられているでしょうか?いずれも方便とはおっしゃられずに「説かれている通りに実行し、説かれている通りに救われなさい」、と教えられていると思います。「できるかできないかやってみなさいと善を勧める」やりかたはとっておられないと思います。」

まず、以上の点ですが同意されますでしょうか?

これについては、前半同意、後半は同意できません。

「説かれているとおりに実行し、説かれているとおりに救われなさい」と
「できるかできないかやってみなさいと善をすすめる」は、イコールだからです。

元自称福徳会員さんは、上記の二つが違うという主張でしたので、前半同意、後半同意できずとします。

よって、元自称福徳会員さんが、紹介しておられる、十九願の根拠、二十願の根拠について

次の点です。これらの2つは19願、20願で勧められている善を実行すれば(実際にできるかできないかは別として)、それぞれの願に相応した往生ができる(救われる)と親鸞聖人がおっしゃられたお言葉と解釈します。同意されますでしょうか?

という点には同意します。

そうやって教え勧めることが、

「できるかできないかやって見なさいと善を勧める」という教え方

になるのです。

元自称福徳会員さんの文章を使うとそうなるのですが、ここで言われる善というのは何をさしていわれているのでしょうか?

十九願も、二十願も、十八願も、最も重視しなければならないのは心ではないでしょうか。
そういう意味からいえば、
「できるかできないかやってみなさいと善を勧める」という言い方は聞いたことがありません。

言うのであれば、「できると思うこころがあるのならやってみなさい。」ということになります。

ものがらよりも、「できると思う心」こそ問題なのですから、目に見える財施の額の大小が問題ではないのです。

そうなりますと、「方便なら方便(真実の救いではない)と最初からいえばいいではないですか」といわれるでしょうが、それが、先のエントリーで書きましたが、方便を使われるのは阿弥陀仏なので、主語はあくまで「阿弥陀仏」なのです。聞いている側で決めることではありません。ただ、どうしてもそう聞いてしまう人が多いのは否定できません。

三願転入で、救われた親鸞聖人からすれば
「説かれているとおりに実行し、説かれているとおりに救われなさい」と
「できると思う心があるならやってみなさい」は、イコールだったと知らされていますので、
「久しく万行諸善の仮門」にいたと告白され、そこから「出でて」と言われているのです。

「できると思うこころがあればやってみなさい」は、阿弥陀仏の仰せです。その通りに教えること自体が間違いではありません。

しかし、これを聞き誤り、誤用するととんでもないことになってしまいます。
(目標達成のために)「できるかできないか(財施や顕正を)やってみなさい」という心でいえば、目的が違いますから間違いです。

事実財施を強力に勧める論拠になっている、または、善をしたら救われる(諸行往生の機)を多く生み出しているのではないかと思われると思います。

仏法を弘めるのに、個人でなく団体となったときには、確かにお金は必要です。そのために喜んで出しましょうというのが、本来の財施のはずです。だから喜捨ともいわれます。
また、仏法を聞かせていただい、自分に法を説いてくださった布教使にお礼の気持ちで出すものです。

それを、救いと結びつけようと思う心はどこから来るのでしょうか。
これは善だからいい結果がくるはずと、自分の尺度で決めているものがあるのだと思います。「これは善いことに違いない」と善悪を自分できめて、救いと関係づける心を自力と言いますが、そういう大変深く信じ込んでいる人には、それしかわからなければ、ではやってみよと勧める以外にありません。

勧める側に、救いと関係づけるように思っていう人はあるでしょうし、勧められる側にも「その方がわかりやすい」のではないでしょうか。

「救いに関係ないなら、なぜ財施するんですか?」と思われるひともあるかも知れません。
財施の意義は、前述したとおり、仏法を聞いたお礼の心で喜んでするもの、また、どうぞ使ってくださいという気持ちで出すものです。

お金が一番分かりやすく、また大事だからこそ、いろいろな感情が起き、いろいろ腹を立てられるのだと思います。

財施に限らず、自力の心のある間は、「仏法を聞いた」も「念仏となえた」も「これだけいいことした」も「これだけ褒められた」も、それが間に合ってどうにかなるというのが、弥陀の本願ではありません。

それは自称福徳会員さんが、コメントで言われているとおりです。

18願の現在の救いを真剣に求めていくと、「18願はそのまま救うと言う教えであり、自分がやった善や念仏では助からない」と聞かされてわかっているにもかかわらず、「善を足しにしよう・念仏を足しにしよう」と言う心がどうしても出てきます。この心が19願、20願の働きであり、そのまま、3願転入の道を進ませていただいておったのだと救われた後にわかる、と言う理解です。

求めるべきは、十八願の世界であって、その目的に向かって進めと教えられた方が、親鸞聖人です。求めるべき善とは十八願真実のことであり、勧められているものはそれ以外にありません。

その真実の世界に入れるために必要だからこそ、方便があるのです。

蓮如上人も言われているとおりです。

蓮如上人仰られ候
方便をわろしという事は有間敷なり。方便を以て真実をあらはす廃立の義、よくよくしるへし。
弥陀釈迦善知識の善巧方便によりて真実の信をば、うることなる由仰られ候と(御一代記聞書)