安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

方便について4・三願転入の主語は阿弥陀仏(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんのコメントより
(全文 http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080618/1213784422#c

結論です。真宗の教えには真宗門徒に対し、18願に救われるために善の勧めはありません。ただし、いくら勧めても18願の救いを求めようとしていない人に対し、19願、20願の善を行うことができれば19願、20願の救いにあずかることができる、聖道諸経の中の善を行うことができればその中で教えられている悟りを得る事ができると方便として教えるのは正しいでしょう。それらの人に19願、20願、聖道諸経は方便で、その中に説かれている善をできるかできないかやってみなさいと勧める方法はありえないことだと思います。

上記の件とおよび、元自称福徳会員さんの以下の件

さて、法を聞く立場のものとして『「19願、20願は方便の願といわれる。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」などと思わない』ことが可能でしょうか?答えのない方程式であると聴かされた(理解した)上で、「答えのない方程式である」などと思わずに、真剣に問題を解こうという気になるでしょうか?

を読んで、思ったことを書かせて頂きます。

以前、説く側、聞く側で言い方が変わるというようなことを書きました。

18願、19願、20願は、いづれも阿弥陀如来の願ですから、その願に誓われている内容の主語は阿弥陀仏です。未信の行者ではありません。
どの願が方便であるか、真実であるかと言うことは、阿弥陀仏が決められていることであって未信の行者が決めることではありません。

私が、法を説く立場のものがと言いましたのは、「弥陀の御心をそのまま説けば」という意味で、未信の行者がどう思うかという視点ではありません。

よって

それらの人に19願、20願、聖道諸経は方便で、その中に説かれている善をできるかできないかやってみなさいと勧める方法はありえないことだと思います。

と思われるのは、元自称福徳会員さんが思った、感想であって、19願、20願を勧められているのは、阿弥陀仏です。「ありえないことだと思う」ことが、弥陀が19願、20願を建てられた御心だと言うことです。

同時に

『「19願、20願は方便の願といわれる。」と聴かされた(理解した)上で、「19願の善、20願の善は方便である」などと思わない』ことが可能でしょうか?

この、方便の願であるというのは、「阿弥陀仏が」言われていることであり、また、弥陀の18願にすくわれた世界から、「方便の願であった」と言われることであって、未信の行者がそう思えると言うことではないのです。

三願転入の親鸞聖人のお言葉は、すべて18願にすくわれた世界から言われており、また阿弥陀仏の御心から言われています。その三願の説明を聞く時の主語は、すべて「阿弥陀仏は」ということになります。

(阿弥陀仏)は19願、20願は方便の願と言われると、聞かされて(理解が出来たらその人は仏心の分かる人ですが)、(未信の行者が)方便であると思わないことが可能でしょうか?
という文章になります。

方便と分かるのは、方便の願を建てられた阿弥陀仏であり、お釈迦様であり、その弥陀の願心をそのまま伝えられる善知識なのです。
「未信の行者が、方便であると思わないことが可能でしょうか?」
と言割れますと、方便が方便と分かるという前提の文章ですが、そうなると、その方便が分かるという主語は、「阿弥陀仏」になります。「未信の行者」ではありません。
そのように、三願転入の御文を聞き、方便が問題になるのも、「阿弥陀仏」の願について、言われていることを、聞いている方が「未信の行者」を主語に勝手に置き換えて聞いているところに誤解の元があります。

「19願に教えられる通りの善を実行して、それから20願で教えられる念仏を称えて、最後18願に入るのだ」という理解は、主語が「阿弥陀仏」になっていないので間違いです。18願から見ないと、三願転入の御文は分かりません。

一方、18願だけで善いと言っているのも、弥陀が建てられて19願、20願を勝手に捨てて、これは方便、これは真実、方便だから不要と、「阿弥陀仏」が決められていることを、勝手に未信の行者を主語にしているという点では、本質的に同じです。

元自称福徳会員さんは、前述の「19願を通って〜」という教え方に疑問をもたれて、「18願だけでよい」と主張されているようですが、正しい理解になったのではありません。本質的に、「阿弥陀仏が」建てられた三願を、「未信の行者」に勝手に置き換えて、未信の立場から三願を見ている以上は、まったく本質的に変わっていません。
あくまでも、阿弥陀仏の御心から、説かなければ三願転入の教えにならないし、聞き間違えてしまうのです。

以前、高森先生から「救われるまでは矛盾としか思われない。救われるまでは真仮はわからない」と言われて、「救われるまではわからないこと。何とかそれで納得しよう」と思ってきましたが、

すくわれるまで分からないこと、と言われても、理解をしようという、元自称福徳のお気持ちは本当に尊いと思います。
「どうせわからんのだから」と、安楽椅子に腰掛ける人がやっぱり多いからです。
しかし、理解の目的は、18願の世界にすくわれるためです。

どうしたら分かるだろうか、分かったら早くすくわれるだろうか、どう聞いたらいいだろうか、と真剣に悩み、進む姿が、19願で誓われている「発菩提心 修諸功徳」の姿です。

その時の気持ちに、「方便だから」「間に合わんから」という気持ちになるでしょうか。
「助からない」という点で言えば、「理解」も間に合いません。「知った覚えた、合点した」のが、真実信心ではないからです。

「どうせ救われないなら、財施を一生懸命するのは意味がない」というのも
「どうせ知った覚えたでは、真実信心ではないのだから、合点しようと、真剣に聞いたり、沙汰をするのは意味がない」といっているのも同じことになります。

どうして「財施」「破邪顕正」はだめで、「真剣に聞いたり」「沙汰をする」ことは、いいことになるのでしょうか。いいことといったら「間に合う」と言うことになります。
ここで、聞き間違って頂きたくないのは、「真剣に聞くのが間に合わない」といったときは、(未信の行者が)真剣に聞く(という行い)がまに合わないと言っているのであって、「聞其名号」の聞くとは違います。

18願を求めているものに本来は19願で教えられている善を求める必要がないにもかかわらず、むりやり理屈をひねり出して人集め・金集めのために目標を掲げて破邪顕正・財施を勧めていたのではないかと思ってしまいます。残念ですが、いろいろな不祥事(盗作・長男の不倫とその揉み消し・会計疑惑等)を勘案するとそのように思えてきます。

最後にここについて、教えについてと思うところを書かせて頂きます。
18願の救いに、未信の行者の善根が間に合って救われるのでは確かにありません。
しかし、「阿弥陀仏」は、19願に善を勧めておられます。
「未信の行者」が、方便だと思って善をするということは、また19願の軌道にのっていないのです。
18願の世界にどうしたら出られるだろうかと、真剣に向い、間に合わないと言われても、何かせずにおれない気持ち(発菩提心)になり、なにかしようとする(修諸功徳)が、19願の願力によって阿弥陀仏に引っ張られている姿です。
菩提心が起きるのも、修諸功徳となるのも、「阿弥陀仏が」なされていることなのです。

その願意が分からぬもの(親鸞会の講師全員がそうとは思いませんが)が、19願をしたら、20願になる、20願の念仏していたら、いつの間にか18願になるというような理解(前後関係も主語も逆)で、勧め、聞く方も理解をするから、不審もいだかせる結果になるのです。

いつも三願転入の話しをされる時に、「これは阿弥陀仏のお言葉です」「これは誰のお言葉ですか?阿弥陀仏です」と何度も何度も、毎回のようにいわれるのは、未だの御心から話しをするということなのであって、未信の行者の立場での話しではないということです。

教行信証に親鸞聖人が書かれているのも、ほとんどが、信後の世界、信後の立場から書かれているのも、善知識は、「如来の代官」であり、「弥陀の御心」をそのまま伝えるということに徹していかれたからです。