安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

方便について4(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんよりコメントをいただきましたので、そこからお答えします。

※コメント全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080618/1213784422#c1213937002

「○○が目標、と聞くと、わくわくする人間の根性しかないんです」とありますが、親鸞会から出される目標を聞いてわくわくする人などおられるのでしょうか?皆さん、どうしようかと泣く泣く努力していると言うのが実情でないでしょうか?貴殿はどのような立場の方かわかりませんが、支部長や一般会員の実感と大きくずれているように思うのですがいかがでしょうか?(この点について現会員や元会員さんの率直なご意見を聞かせてもらいたいものです)

これに関しては、目標がでたことについて、わくわくするということについては、その目標に向かう動機付けという観点で書きました。

種々の目標自体、大変だというのは実感として多くの人が持っておられることには同意します。前向きに取り組む人もあれば、やる気を喪失する人もあると思います。
動機付けに大小はあると思いますが、それに参加する人は、どういった動機付けでその目標に向かっているのでしょうか。

「この目標にむかって活動すれば信仰が進むだろう」という動機付けではないでしょうか。
達成したときに、ほっと安心したり、よかったと安堵するのは、名誉欲が大きいでしょうか、その根っこにあるのは、それによって信仰が進んだという思いではないでしょうか。
また、そういう活動をするときに「自分はこれだけ信仰を求めている」という実感です。

そういう点で、「わくわくする人間の根性」と表記しました。別に、まったく苦痛を伴わないということではありません。

さらに親鸞会の目標について2点について正しいか質問します。
・目標を達成しようができまいが、助かるか助からないかは全く関係ない。
・目標に向かって努力しようがしまいが、助かるか助からないかは全く関係ない。

「助かるか助からないか」ということからいえば、言い換えますと

「縦の線を突破するかしないか」
「自力が廃るか廃らないか」
「信楽と生まれさせられるか、させられないか」という一念の水際においては、全く関係ありません。

「目標達成した」「目標にむかって努力した」など、私たちの行いは、阿弥陀仏の本願力によって救われることと無関係なので、他力の救いといわれるのですから。
逆に、「目標達成できなかったら、救われない」となったら、自力の行が間に合うことになるので、教義に反します。

私たちのやる行いは、善いと思っている行いも足しにはならず、悪いと思っている行いも碍りにはなりません。

助かるか助からないかは、雑行雑修自力の心が廃ったかどうかで決まります。他に、救われるか救われないかを決めるものがらはありません。

また、「周囲の評価が高い人は、今の格好をくずすことはできず方便が方便になってない」とあります。親鸞会では恩徳報謝賞・真実開顕賞などの表彰制度を設けていますが、これらについては「方便が方便になってない」ことを助長しているのではないでしょうか?

これに関しては、結果として「方便が方便になっていない」ことを助長する結果になっている人もあるでしょうし、そうでないひともあるとは思います。

確かに、みんなの前で賞讃されたり、賞状をもらったり、機関誌に報道されたりすると、まわりが褒めるということが、自力の上塗りと言うことになってしまうことも多いと思います。

実際の気持ちは、その当事者に聞いてみないとわかりませんが、 助長された人が多いのではないかと思います。

支部長であったり、幹部の人では、助長することで○○目標を達成しようという人もいるでしょうし、そういう人がいることは否定しません。

では、何のために、表彰制度があるのか。という質問になると思います。

どうしても形のあることしか分からない人が多く、それを喜ぶ人が圧倒的な状況で、財施という行為を通して少しでも仏縁をと言うことかもしれません

ただ、縦の線の水際では、それは全く関係ないということは前からも書いてきました。

捨てねばならないのは自力の心であり、財施と関係づけようという心なのです。

では、そういうことをしなかったら、絶対信心決定まで求め抜く人が今よりもっともっと増えていたのか?と問われると、それは、分かりません。

親鸞聖人がおられた800年前の真宗教団と、蓮如上人時代の、本願寺教団では、どちらが真実信心を獲た人が多かったのか。

説法の内容以外の方法論で、どれだけの人がご縁を結ぶと言うこととは別の段階の、真実信心を獲るひとがどれだけ変化するのかということは分かりません。
真実信心は、あくまで阿弥陀仏から賜るものなのですから。

真仮の水際で、表彰されたかどうかも含めて私たちの自力の行いは、関係ない、とはっきりと、ご法話でも、言われている以上は、聞いたほうの責任といえます。

また、その誤解を(おそらく自身も誤解して)増長している人の責任です。

そうなると、加害者はだれ、被害者は誰という犯人捜しをしたい気持ちの人も多いでしょうが、それはこの文章を読まれている方が決めることではないかと思います。
そういう点で大事なのは正しい教えを知ることに違いありません。

なお、17日・18日の方便に対する貴殿の記載内容は私がかつて親鸞会に在籍していたときに高森先生からお聞きしていた内容かと思います。このことについては貴殿は同意されますか?

その点は同意します。また、真宗の教えと違ったことを書いているつもりはありません。

聖道権仮の方便に 衆生ひさしくとどまりて 諸有に流転の 身とぞなる 悲願の一乗帰命せよ(浄土和讃)

ご和讃を紹介していただき有り難うございました。

浄土真宗は信心為本の教えであり、真実信心は、不可称不可説不可思議の信楽と言われるように、私たちにはなかなかわかりにくいものです。

信前においてわかるのは、雑行雑修自力の心です。
これが、本当に問題になったなら、目標達成したとか、しないとか、努力したとかしないとか、自力が廃ることと関係ないと言うことは、実際に分かるときが来ます。

なぜ、救われても欲や怒りの煩悩は変わらないのか。
雑行雑修自力の心が問題になればわかります。

どうしたら捨てられる、どうしたら楽になれると、苦しみ計らうままが、阿弥陀仏の上に立ってあれこれ計らう心であり、自力の心そのものなのです。

その上での信心の沙汰(信疑決判)であり、そこをどうしたら捨てられるのかと、聞くのが、火中突破の聞法といわれるのです。

「大千世界にみてらん火をすぎゆきて」しまったら死んでしまいます。
実際に自力の心が死ぬときが、「仏の御名をきく」ときであり
「ながく不退にかなう」ときなのです。