安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心の沙汰について思ったこと(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんのコメントより

とりあえず、保留と言うことでいかがでしょうか?
まずは、全体のご回答を頂き、必要に応じて、再度質問させていただくと言うことで…。
清森問答  投稿−コメント
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-145.html#comment522

とありましたので、いただいた質問について、回答文をまた書いていきたいと思います。

と思いましたところ

追伸:貴殿は法友とこのような信心の沙汰を行われているのでしょうか?

とありましたので、先にこちらにお答えします。

私は、縁あって、法友、同行と信心の沙汰をよくします。よくするのはなぜかと言えば、語弊もあるかも知れませんが、信心の沙汰はとても面白いからです。
お互いの時間が許せば、一晩でもやってみたいと思います。

修学旅行の中学生ではないので、実際はお互い時間の制約もありそこまではできないのですが、信・不信を問わず、沙汰は面白いと思います。

寒なれは寒、熱なれは熱と、そのまゝ心のとほりをいふなり(御一代記聞書)

信前信後を問わず、心のとおりいわねば、やっぱり沙汰にはならないでしょうね。
元自称福徳会員さんのコメントを読んでいると、思いっきり沙汰をするご縁があまり、周囲にはなかったのかなと思いました。

沙汰の場においては、仏法の立場からでも上下(道と俗・先輩と後輩)の差別はないですから、遠慮はいらないのです。

何としても人に直され候ように心中を持つべし。我が心中をば同行の中へ打出しておくべし。下としたる人のいうことをば必ず用いざれば腹立するなり。浅間しきことなり。ただ人に直さるるように心中を持つべき由儀に候(御一代記聞書 108)

ともに仏法を聞く同行の中に、心の中を打ち出せと言われています。
また、下の人のいうことに腹を立てるのは浅間しいことだとも言われています。

言わないことには、聞き誤りはただされないからです。どうしても、自分の業で得手に法を聞いてしまいます。

沙汰の場においては、お互いが、知識であり同行なのですから、同行どうしであっても、ある程度信仰の進んでいる人は、そこまでいっていない人を引っ張り、手を取ってともに、信仰の道を進んで、ゴールを目指すべきではないでしょうか。

「自分はまだ未信だから」と、口を開くことに躊躇していては、自分のところまで信仰が深くなっていない人も、そこまでだれが押し出してくれるのでしょうか。

もちろん、阿弥陀如来の本願力には違いありませんが、それにまかせて何もしなくていいのであれば、十劫安心になってしまいます。

自分のいる場所の近くで、疑問を出しても答えられなかったからこそ、ネット上で質問をだし、何かのご縁だ私が文章を書いていますが、これも信心の沙汰になるのでしょう。

また、沙汰は、当事者だけでなく、それを横で聞いている人も、「そういうことだったのか」とか「そういうことなのか?」と、いろいろと見方を変えて仏法が聞けるので大変よいご縁です。

一番は面と向かって信心の沙汰をするのがいいとは思います。
沙汰をすること自体は、面白いのでやっています。この文章も、時間をみて書いていますが、私自身は楽しんでいますので、続けられます。

質問にお答えしようと思いましたが、少々長くなりましたので、また後日、エントリーを書きますので、宜しくお願いいたします。