安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

御文章4帖目3通(当時世上)の解釈について2(元自称福徳会員さんのコメントより)

重ねてコメントを頂き有り難うございました。

お尋ねの点について、必ずしも御門徒のこと対象に書かれていないところもあるのではないかというご指摘ですが、記述として、「聖道の学者」に向けて書かれたものも確かにあります。

そういう点では、ご指摘の通りと思います。

私が、御門徒の方に向けて御文章を書かれたといったのは、手紙である以上、そのお手紙の宛先は誰になっているのかという意味に取っていただければと思います。

「毎月両度講中へ」と書かれたりありますように、「聖道門の学者」に宛てて書かれた御文章は、5帖の中にはありません。みな、当時の御門徒宛に出されたお手紙だという意味で書きました。
その中に、他の人について触れている部分はないと言うことです。

お尋ねの部分についてです。

さて、「いかなる菩提・涅槃を願う」についてですが、親鸞聖人・蓮如上人が「どんなことでもいいから安心したいと、人の救われた体験話を聞きたがる心、体験話を聞くことで、形だけでもまねをして安心しようとする心」と解釈したところがあるでしょうか?私は『「菩提・涅槃」というのは覚り(正定衆を含む)や浄土のことのみを言う』と認識しています。 (清森問答  投稿−元自称福徳会員さんのコメントより)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-145.html#comment520

確かに、「菩提・涅槃」というのは、覚りや浄土のことをいいます。
「早く助かりたい人」にとって、「なんでもいいから体験したい」「何でもいいから安心したい」といった場合、その「安心」とは、正定聚の身になりたいということであり、浄土往生間違いない身になりたいという意味です。

そこから、「これで助かったのだ」「これで正定聚の身になったのだ」と、安心できる安楽椅子を探し始めます。千万の化城といわれるものです。

そういう意味では、みんな何かの安楽椅子を持っています。別の言葉で言えば、自力の信心を持っています。
別に後生に驚きが立っていなくても、焦る気持ちがなくても、すでに何かの安楽椅子に座っています。だからこそ、後生に驚きが立たないともいえます。
自分の座っている椅子がたたき壊されて初めて、自分の信仰に不安を覚え、前に進まずに折れなくなります。


ただ、そう説明をすると、元自称福徳会員さんのコメントにあるように

また、蓮如上人は「願う事なり」とか「願うものなり」とは書かれずに、「願うべき事なり」、つまり、願いなさい、とおっしゃっています。貴殿の解釈の「いかなる善根功徳をも修し」と「いかなる菩提・涅槃を願う」をつなげると蓮如上人はここで『「弥陀の救いにつながると自分で思うものを、ひたすら求め」「どんなことでもいいから安心したいと、人の救われた体験話を聞きたがる心、体験話を聞くことで、形だけでもまねをして安心しようとする心」を願いなさい、起こしなさい。』とおっしゃったことになるのではないのでしょうか?まるで化城の安心を勧めているようなことにならないのでしょうか?

そのように解釈できてしまいます。

改めていいますと、「一般の人向けに読めば」という前提でいえば、「老少不定と聞いたなら、どんな功徳をも行い、菩提・涅槃を願いなさい」という意味になり、それで十分意味は通ります。ご指摘の通りと思います。

私に向けて書かれたものだと思えば
『「早く、後生に驚きがたつ身になりなさい」
「いかなる功徳善根をも修し、菩提・涅槃を願うくらい信心決定を早く求めようという気持ちになる」身になりなさい。

そこまでいかないのは、まだ信仰が進んでいないのだ』といわれているように、私は読ませていただきます。

ここまでいくと「私釈」といわれてしまうかも知れませんが、「19願の入り口にも入っていない」発言のことと併せて考えますと、そのように私は読まずにおれません。

どこに後生に驚きが立っている人があるでしょうか、
どこに、早く弥陀に救われたいと思い、いかなる善根功徳をも修している人があるでしょうか。
どこに、どんな椅子でも安心したいとまで、獲信を焦る行者(宿善の機)がいるでしょうか。

「これで自分は間違いない」「このまま聞いておれば安心だ」「これだけ善に励んでいるもの」

だから、「いつかそのうち助かるだろう」と安楽椅子にどっかり腰をかけ、呑気に聞法している人がほとんどではないでしょうか。

涙を流して仏法を聞いている人はあっても、感情の高ぶりで流す人は多くあっても、我が身の後生に驚いたり、弥陀に救われて懺悔の涙を流す人にはなかなかお目にかかれません。

「無宿善の機にいたりては力及ばす」(御文章)

とは、蓮如上人どんなお気持ちで書かれたのでしょうか。

一方御遺言には

「まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くもやむことなし」

といわれています。『宿善まかせとは「いいながら」』なのです。
無常に驚いたこともない人は、確かに信心の世界には遠いのです。宿善の機でなければ、弥陀の本願は徹底しません。
確かにそれが教えとは、「いいながら」、「述懐のこころ暫くもやむことなし」と御遺言された蓮如上人のお言葉を讃題で聞かせていただく度に、「みなみな信心決定あれかし」の善知識方の、心の叫びと思わずにおれません。

またまた長くなってしまいましたが、質問の2の方は、また後日コメントさせていただきます。

最後に、

。「貴殿を打ち負かしてやろう」と言う気持ちはさらさらありません。貴殿とのやり取りで本当の親鸞聖人のみ教えを理解したいのです。残念ながら、親鸞会在籍中はこのような深いやり取りをするご縁はありませんでした。

貴方のこの最後の言葉を読み私も、蓮如上人ではありませんが、「述懐のこころ暫くもやむことなし」です。
名前も知りませんが、きっと同じ会場で聴聞をしてきたことなのでしょう。

そのときご縁がなかったというのは悲しいことですね。
心を打ち出して、沙汰ができればよかったのですが。ネット上でこうやって沙汰をするのもまたご縁と思います。