安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

御文章4帖目3通(当時世上)の解釈について(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんのコメントより
本文が長いので、全文を読みたい方は、リンク先をご覧下さい。

御文章の意味についてのご質問について、回答を書かせて頂きます。

この部分の引用は不適切かと思います。私の解釈の誤りをご指摘していただくか、「後生に驚きのたった人は、諸善についてどのように向かうのか」を、再度、別の表現でご教示いただけましたら幸いです。
(清森問答  投稿−元自称福徳会員さんのコメント)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-145.html#comment511

と言うことです。

該当する御文章について、先のエントリーでは以下のように書きました。

「これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修しいかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。(御文章)」

自力が妨げになると聞かされても、どうしたら捨てられるだろうかと、求めるのが「いかなる功徳・善根をも修し」です。当然この中には、財施も破邪顕正も念仏も信前の聞法も入ります。

それについて、以下のようにご質問頂きました。

私の解釈は以下のとおりです。

「この頃は世が乱れ、霊験あらたかな寺社に参詣する人は稀である。人間は老少不定と教えていただいたなら、急いでいかなる功徳善根(聖道仏教の修行を含む)をも修して、いかなる菩提涅槃(自力の覚り・諸仏の浄土往生を含む。もちろん、弥陀の浄土往生や化土往生を含む)をも願うべきである。けれども、今の世は末法濁乱の時機とはいいながら阿弥陀如来の他力本願は今の時節にはいよ〜不可思議に盛んなのである。(だから阿弥陀如来の他力本願を求めるべきなのである。)」

私の解釈では貴殿の引用された御文章の箇所は18願の救いを求めて自力が妨げになっている人にではなく、むしろ未だ浄土門に入っていない人に対しておっしゃられたお言葉ということになります。
(元自称福徳会員さんのコメントより)

私が、上記の部分について、前述のような説明をしたのは、あくまでも蓮如上人がご門徒の皆さんに書かれたもの、親鸞聖人の教えを聞いている人に向けて書かれたもの、弥陀の救いを求めている人に書かれたものということで、そのように書きました。

事実、「当時世上」の御文章は、上述の部分の最後からは、早く一念の信心を決定せよと書かれています。

されば、この広大の悲願にすがりて、在家止住の輩に於いては、一念の信心を捕りて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもって宝の山にいりて、手を空しくして帰らん似たるものか。(御文章4帖目3通)

そういうことから言って、私は蓮如上人の「これにつけても、人間は〜」の部分は、そのように書かれているとしか読めません。なので、先に別の言い方であらためて説明を致します。

弥陀の救いを求めている人が
「老少不定と聞くとき」=「無常を知らされる」=「後生に驚きがたつ」ときは、
当然、「早く弥陀の救いにあいたい」「早く弥陀の救いにあって安心したい」というこころが起きます。

そうなると、弥陀の救いにつながると自分で思うものを、ひたすら求め始めます。
それを「いかなる善根功徳をも修し」と言われています。
追加で言えば、「いかなる菩提・涅槃を願う」というのは、どんなことでもいいから安心したいと、人の救われた体験話を聞きたがる心、体験話を聞くことで、形だけでもまねをして安心しようとする心を言います。

親鸞聖人の教えをよくよく聞いていれば、もちろん救われるかどうかは、他力の信心一つであり、南無阿弥陀仏を阿弥陀仏から頂いた時であり、自力が廃った時であり、18願に相応した時です。

その教えから言えば、善が間に合って救われるのではありません。そうは聞いて知ってはいても、どうしても善(自分が善だとおもっているもの)にしがみつくのが人間の自性です。
だから、財施の多いとか少ないとかで救われるかどうかが決まるのではないと、知ってはいても、財施をせずにおれなくなってきます。御文章など、親鸞聖人、蓮如上人の書かれたものを読まずにおれなくなってきます。念仏となえずにおれなくなってきます。仏法聞かずにおれなくなってくるのです。

そういった、私たちの行為の善し悪しで救いが決まるのではないと、どれだけ聞かされてもせずにおれなくなるのが、「いかなる善根・功徳をも修し」と言われているところなのです。

そういう意味で、19願で善を勧められるのも、全く、知らないものに対しては、19願を出す以外の方法がないからなんです。
当然、19願でいわれるところのいろいろな善と救いは関係ないんです。
問題は、気づくのか、気づかないのか、の一点で気づかない人が、圧倒的、すべてと言っていいんです。
そこに気づく人は、稀有なんです。しからば、やってごらんなさい、と言うしかないんです。
王舎城の悲劇で、釈尊が韋提希夫人に定善・散善を勧められているのはその御心です。
弥陀の浄土に往生できる結果が得られるほどの、善ができるはずはないのですが、親鸞聖人が身をもって、と言われても、そこまで、強いうぬぼれが、敗れないんですよ。
どうしても自分が判断している善にしがみつくのが、自性なんですから、ぴんともかんとも、こない人に、釈尊を始め、善知識がたは、なんと言いますか、じゃあやってみろと言う以外、方法がないんです。

親鸞聖人が、出来なかったといわれているのに、自分は善悪が分かる、自分がやる善は往生に絶対関係あると親鸞聖人の頭に立ってるので、
「信楽を受持することは、甚だもって難し、難中の難、これに過ぎたる難はなし」と言われるのです。

そこをつかまえて、お金集めの手段だと、いい始める人もありますが、教えとは違います。

ただし、19願で、その行いで助かる、とは、親鸞聖人も、蓮如上人も言われていません。私も高森先生のご説法をお聞きして、聞いたことありません。
どこにも言って無いんですが、勝手に、思い込んだ人が聞き間違えたということです。
それが、専任講師なのか、会員なのかは、ここでは言及しません。

善悪の判断がつくと、いまだにうぬぼれて、信心とは程遠い世界です。

ここまでは、別の言い方で書いたものです。

では、元自称福徳会員さんの解釈から(コメントより)

一向専念 無量寿佛が真宗の教えであるにもかかわらず、なぜ、蓮如上人は一見、聖道仏教の修行や自力の覚り・諸仏の浄土往生を願うことを勧められるようなことを書かれたのでしょうか?以下の理由が考えられます。どちらか一方ということではなく、両方の理由からだと思います。

1. 当時、比叡等の聖道仏教からの弾圧が激しく、真宗の道俗が生命の危険にさらされていたため、弾圧を和らげるためのスタンス。

2. 「浄土門の教えは宿善深厚の人しか聞くことができない教えであり、そうでない人にいくら聞かせても納得させることはできない。聖道仏教では凡夫は救われない教えではあるが、外道に走ったり、欲にまみれた生活をするよりはましである。彼らにとっては浄土門に入るには今生ではまずは聖道仏教を求めることが必要なのであろう。」という御心。

しかしながら、一見、聖道仏教の修行や自力の覚り・諸仏の浄土往生を願うことを勧められるようなことを書かれた上で、阿弥陀如来の他力本願を求めるべきことを書かれて、目釘を打っておられます。

あくまでも、この部分は、一般的な真宗門徒以外の人のことをさして言われているのであるという解釈をされるのであれば、私はそれでも間違ってはいないと思います。

仏法は対機説法と言われますように、この御文章が全国紙のどこかの1コーナーになっているのなら、元自称福徳会員さんのように解釈できると思いますが、御文章の対象は、あくまで当時のご門徒の皆さんです。

翻って、私に書いてくださったと思った時は
「人間は老少不定」と言われた時の、「人間」とは「私」のことです。
「老少不定」なのは「私」なんです。
そうなった時に、どんな気持ちが起きるかということです。仏法は自らの心に問いかけるものです。

「当時世上」の御文章の後半には、王舎城の悲劇についても書かれています。
アニメ王舎城の悲劇で「外ばかり向いていた、韋提希夫人の目が初めて自らの心にむいた」とありますように、自分の内側になかなか心は向きません。しかし、向かなかったら、「宝の山に入りて、手を空しくして帰る」ことになっては、もったいないことです。

せっかく生まれがたい人間に生まれてきたのは、その宝(南無阿弥陀仏)を頂く為です。

一つのことについてかくのもなかなか長くなってしまい、済みません。
もう一つのコメントについては、また後日書かせて頂きます。

※追記

・「霊仏霊社参詣」と諸仏や権仮の神への参詣について述べてられていること。
・「いかなる菩提涅槃」には自力の覚り・諸仏の浄土往生が含まれると考えられること。
・「いかなる菩提涅槃」の因となる「功徳善根」には諸仏や権仮の神へつかえる五雑行が含まれると考えられること。
・貴殿の引用されたの箇所は阿弥陀如来の本願の言及の前に述べられていること

上記がコメントに追加されていたことを見落としておりました

これについても、一般人の人対象、または、一般の人が読めばそういう解釈でも、意味は十分通ります。

前述しましたが、「蓮如上人」が「ご門徒」に書かれたのが、御文章であり、また読む人も、蓮如上人から、直のご説法だと思ってこの御文章を拝読したなら、私のように読めるはずですし、私はいつもそのように蓮如上人のお言葉を頂いております。