安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自称福徳会員さんの質問に答える問2〜4

2.「もろもろの雑行雑修自力の心をふりすてて」の蓮如上人のお言葉について
親鸞会では『雑行(=諸善)を持っていない者に対し、「捨てろ」といわれるはずがない。だからこのお言葉が「蓮如上人が善を勧めたお言葉である」』と教えています。『雑行(=諸善)を持っていない者に対し、「捨てろ」といわれるはずがない』までは同意します。しかしながら、これは善を勧めたお言葉ではなく、『「信心ひとつで助かる」と聞かされても、それでも出てくる「善で助かろうとする心」を捨てよ』ということではないでしょうか?「新たに持ってから捨てなさい」ということではなく、「すでに持っていることに気づいてそれを捨てなさい」という御心と思いますがいかがでしょうか?

「雑行をすてよ」とは、文字通りの意味です。
「善を勧めたお言葉」で有りますが、「善をしたら助かる」という意味では当然ありません。
「善で助かろうとする心を捨てよ」と言われているお言葉です。

「善をする」ということと、「善をすることで助かろうとする心」は全く別問題です。
その自らの行為と、弥陀の救いはまったく関係ありません。

弥陀の救いについて問題になるのは、あくまでも雑行雑修自力の心です。
また自力の心自体はもともと持っているものには違い有りませんが、そこに気づくまですすむ人がなかなかいないので、信心をうるひと稀なりと言われるのです。

3.「今生で18願の救いを求めているものに対し、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」ということを教えられた親鸞聖人のお言葉をお示しください。なお、ただ、修善を勧めたお言葉だけでは不十分です。 あくまで18願の救いを求めている機に対してのお言葉をお示しください。

ご本人からの解説

質問3は質問1−2で親鸞会が「18願に救われるため今生で一生懸命善に励みなさい、家を売ってまでも親鸞会に財施しなさい」とする主張の根拠として代表的に引用している親鸞聖人・蓮如上人のお言葉の解釈は怪しいので、「ダイレクトに親鸞会の主張を支持するお言葉を提示しなさい」ということです。

結論から言いますと「善を行うことで早く救われる」という教えは真宗に有りません。
親鸞会発行の本を読んでもそういう部分は見当たりませんでした。

善を勧めると聞くと、「そうすれば早く救われるからだろう」と思う人も多いですが、まったく救いとは関係ありません。
自力が廃るか廃らないかは、まったく南無阿弥陀仏の働きによる物であり、わたしたちのやった行為がさし挟まる余地はありません。

「あんなに善を勧めなくてもいいのに」という主張に対する反論文章はみることが出来ますが、これも「善の勧め」が「ある」か「ない」かということを通して、「ない」という側の主張の底にある、自らの行いの善し悪しで、救いの時期が早くなったり遅くなったりする心を問題にしているのだと思います。

質問者自体も、法施や財施が、救いと関係あるのかないのか、ないとしたらなぜすすめるのかということを疑問に思われてのことなのでしょうが、関係有りません。

ただ、善い行いには必ず良い結果が返ってきます。因果の道理はいつでもどこでも変わりません。「これだけ善いことしているんだから助けてくれるだろう」と、弥陀の救いに予定を立てる心を自力というのです。

ついでに言いますと、
「これだけ善いことしているのだから少しは阿弥陀仏からご利益あるだろう」という心も、「阿弥陀仏」を、「天理教」や「○○神」「○○菩薩」に置き換えてもまったく変わりません。
そんな心を雑行といわれるので有って、それを捨てよといわれるのです。
浄土真宗の信心は、そういう信心(雑行)では有りません。

4.親鸞会の講師で何十年もまじめに財施や破邪顕正に勤めてこられた方が少なからずおられるのになぜ救われられないのでしょうか?高森顕徹先生は講師の方に対し「まだ、19願の入り口までも行っていない」とおっしゃられたとお聞きします。講師のかたがそうであるならば、一般の会員さんはどうなるのでしょうか?実質的に親鸞会の教導では救われないということでしょうか?

質問4は「誤った教義により、レールから外れた求道となり、講師の方でも何十年経っても救われないのではないのですか?」ということです。

結論から言いますと、「講師(坊主)が早く救われるという教えは真宗にありません」
御文章を拝読していると、坊主が信心を得ずに、ご門徒に信心を得ている人がいるというような描写があちこちに出てきます。
また、財施や破邪顕正をしたから助かるという教えでもありません。あくまでも阿弥陀仏の本願力によるのです。
では、財施や破邪顕正はやるだけ無駄なのかという質問もでると思います。

まったく無意味なのか、弥陀の救いにあうための足しになるという意味では、成りません。自力が間に合って助かるということに成るからです。

また誤った教義というよりは、教義の聞き誤りということです。私も高森顕徹先生から親鸞聖人の教えを聞かせて頂いていますが、今日まで、「財施をしたら助かる」とか、「破邪顕正すれば助かる」などということは一度も聞いたことが有りません。
本にも書かれていません。

19願の善の勧めと、その通りしたら救われると関係づけるのはあくまでも聞いた側で有り、私はそのように聞いたことは有りません。

もし親鸞会での教導が本気でそんなことを思ってやっているのであれば、教義上は間違いに成ります。